東白楽駅


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体なんていくらでもくれてやるから、代わりに誰かの温もりをずっと隣で感じていたかった。セックスなんてお安い御用だったし、女子大生というブランドさえあれば正直男には困らない。

 

私は今隣にいる男にさほど興味もなく、なんなら名前すら知らなかった。彼と出会ったアプリに登録されているハンドルネームのH.Kという文字列だけが、彼に関する唯一の情報である。
「東白楽なんて来たことないでしょ?」
見た目はまあまあ。背丈もそこそこ。不潔でもなければ清潔でもない。ざっと見る限り35歳といったところだろうか。少し生えた顎髭を軽く撫でながら、だるそうにざらっとした声で私に尋ねる。
「いやでも私東横ユーザーなんで名前だけは知ってました」
「えそうなの?どっから乗ってんの?」
「池袋の方です。まあなので名前は副都心線ですけど」


改札から出ると恐ろしく人がおらず、近くになんのスポットもない住宅街の駅だということが一目で分かる。それとなく見回すと右には大きな通りが見え、左には小さな住宅街がうかがえる。この感じだとこの辺りにラブホテルはないだろうし、行き着く先は恐らくこの男の家だろう。男は右の大きな通りの方へ体をだるそうに向けた。

 

出会い系アプリで男と会い体の関係を持つ。勿論親には言っていないが、このご時世結構普通なことだ。友達もみんなやっている。逆に彼氏ができた途端に一途ぶってやめていく子もいたけれど、本当つまらない人生だなと影で嘲笑していた。今遊ばないでいつ遊ぶ。早々に一人の男に囲い込まれて敷かれたレールに乗っかるのはもうこりごりだった。

 

「名前なんていうの」
名前なんてどうでもいい癖になんで聞くのだろうか。
「エリカです」
日差しが眩しい。こんな天気の良い日に知らない男とセックスをしようとしているなんて、なんだか少しバツが悪い気持ちになる。いつもそうだ。私には昔から母親に植え付けられた偽善の心があって、無駄だと分かっていても今尚ちくりと刺してくる。
「俺はカズト。32歳。Webデザイナー。独身。」
聞いてもいないのに前を見つめながら訥々とロボットのように男が言う。カズト、という名前の響きがなんだか異国のように頭に流れ込んできて、つい男の顔を覗き込んでしまう。出会い系アプリでの男は皆決め込んだ写真にこれでもかというくらいびっしりとプロフィールに自分の経歴を書き上げているのに対して、カズトは今のような顎髭はまだないつるりとした顔でどこかの古民家の前に立っている写真と共に、あっさりと「気が合ったら飲みましょう。」とだけ書いてあるだけだった。そんなプロフィールで私にいいねをしてきており、私が承認さえすればメッセージを交換できるようになっていたため、物珍しさに承認したのだった。写真とは顎髭くらいしか変わっていなかったし、2、3年前といったところだろうか。

 

私が体を安売りするようになったのは、長く付き合っていた大好きな男に別の女がいたという事実を知ったからだった。私には彼しかいないと思っていたし、それは彼も同じだろうと信じて疑わなかった。確かに少しだらしないところのある男だったが、私に対してはとても誠実だった。はずだった。ある日震えた私のスマートフォンが知らない電話番号を表示しており、簡単に言えば私が本命なのだから手を引いて欲しいと女の声で静かに牽制されたのだ。それは怒りではなく、自分が絶対的に正しいのだという自信に満ちたものだったように思う。私はハイワカリマシタと録音音声のように答えて電話を切り、全てが流れますようにと祈りながら声を殺して泣いた。

 

ただひたすら真っ直ぐな道を、相変わらず訥々と話しながら二人で歩く。冬が近づいているはずなのに、なんだか少し暑くなってきた。モコモコとかさばる白いアウターに黒いデニムミニスカートは、何度も何人もの男に脱がされてきた。服を考えるのが面倒で知らない男と会う時はこれと決めたのだった。
エリカちゃんはなんで出会い系なんてやってんの」
「復讐のためです」
「は、復讐?こわ、誰に?」
カズトは初めてこちらを見て立ち止まった。心底驚いたように少しタレ目な目元を持ち上げている。年齢の割には少しかわいい。
「彼に」
道路の反対側のラーメン屋からスーツ姿のおじさんが出てくるのをチラと見ながら、ああもうそんな時間かと思う。一人では寂しいと思う時間帯を一つ今日もクリアした。
「何されたんだよそいつに」
またさっきのような落ち着いた声に戻り、ゆっくり足を運んで諭すような色を残しながら尋ねてくる。
「付き合って長かったんですけど、浮気相手から手を引けって電話かかってきて。ていうか多分私が浮気相手だったんだと思うんですけど。」
なるほどね、とちょっとどうでも良さそうに言いながらカズトが自分のポケットに手を入れる。
「元彼、って言わなかったってことはまだ別れてないんだ?浮気仕返してやろうって感じ?」
隣のカズトの視界に入るように黙って頭を縦に振ったらなんだか顎の先から弱音が出てきてしまいそうになり、慌てて「分かりやすく浮気して、浮気について聞かれたら向こうの浮気を指摘して潔くフるつもりなんです」と付け加えた。

 

この男はどこに向かっているのだろうか。この先に家があるのか。少しずつ不安になってくる。大きな通りをひたすら二人でのんびり歩いている。大きな銀行の前を通り過ぎる。目的がありそうな雰囲気を、隣のカズトという名の男からは感じられない。
「あの、」
私の声に被さって
六角橋商店街って知ってる?」
とカズトが私に問う。知らない。
「その商店街の入口がね、すげーかわいいの。見てほしい。」
何を言ってるのかと眉をひそめた私に
「大丈夫、それだけ見たら昼飯にするよ」
と。そんなことを聞きたいんじゃないんだけど。

 

男経験を積むうちに、恋愛なんてただのままごとだったのだと思えるようになった。彼女がいる男だって平気で私と会って私の体に発情してきたし、他人の男と寝たことで自分の彼氏が他人のものだったこともなんだかチャラになる気がした。きっと誰が悪いのでも誰が正しいのでもなかった。本能というものがあらゆる事象の頂点にあったという、ただそれだけのことだったのだと。私の彼はまだ私が浮気をしていることを指摘してはこないし、もしかしたらもうどうでもいいから目を瞑っているだけなのかもしれない。それならそれで自然に逢瀬はなくなっていくのだろうし、なるようになればいい。どうでもいい。

 

「なるほど」
つい感心した声が出てしまった。まあ確かに商店街という古ぼけた名前がついている割には、ステンドグラスのようなデザインの中にあえての昭和レトロのようなフォントで六角橋商店街と書いてあって、かわいい。これだけといってしまえばそれまでだが、私は嫌いじゃなかった。
「な、かわいいだろ?俺の家全然ここ最寄りじゃねーんだけど、これもあって東白楽お気に入りなんだよね」
「え最寄りじゃないんですか」
つい吹いてしまう。なぜここを指定したのか。
カズトは「お、」という顔をして、
「初めて笑ったじゃん。じゃ昼飯でも食お」
と言って、商店街には入らずにくるっとUターンした。なんだよ、商店街の中で食べるんじゃないのか。商店街から少し戻ったところの大量のメニュー写真が立て掛けてある中華料理屋にぬるっと入る。

 

オススメはかた焼きそば。と相変わらず無表情な声で伝えてきたので、二人でかた焼きそばを頼んだ。客がまばらで、奥に長い店だった。中国人の店員が無愛想に行き来している。
「俺はさ」
よくよく見ると本当に穏やかな目をしている人だな。声もまた然り。
エリカちゃんと同い年くらいの恋人がいたんだ。つい一ヶ月前まで」
「へえ、フラれちゃったんですか?」
若いカップルが自動ドアを開けて入ってくる。いらっしゃいませお好きな席にどうぞーという店員の声に応えて、二人でどこに座ろうかと仲良く悩んでいる。
「いや、死んだんだよね」
「え」
空気が止まったところで、タイミングよくかた焼きそばが運ばれてくる。いい匂いだが、食欲が消えた。なんで、と言った自分の声が掠れていたのは、ずっと感情がなかったカズトの瞳にわずかながら悲しみの色が浮かんだからだったのかもしれない。カズトはそれを隠してか無意識か、固まった私を横目にくるーっとかた焼きそばの上にお酢をかけていく。

 

でもまだ俺の心の中の恋人は成仏しきれてやれてないんだ。とかた焼きそばを箸に絡めながら静かに言った。結婚を一週間前に控えていたらしい。幸せ真っ只中だと思っていた筈が、その日彼女は他の男と寝ていて、その相手に刺された。男の供述では長らく浮気相手として関係を続けていたが、結婚するからもう会えないと告げられ逆上したということだった。最愛の相手と恋人という関係のまま死なれた人間と、恋人にはなれなかったがその手で最愛の相手の最後を下した人間はどちらが不幸だったろうか。どちらが勝ったのだろうか。

 

彼女の住んでいた東白楽に全く関係のない第三者的女性と来て、成仏させたかったのだと言う。
「一人じゃとても来れなかったんだ、悲しすぎて」
100円玉を切らしてるんですけど全部50円玉で返してもいいですか?と少しラフな日本語で話しかけてくる店員に、気前よくどうぞどうぞと返している横顔を見ながら、こんなに優しそうな男でも浮気されるのだとぼんやり思う。


浮気されているのならそれはそれでも全然構わないと思えるくらいに大好きな人だった、と目を伏せてかた焼きそばの最後の一口を頬張ったその顔を直視できずに、私はずっとその顎髭を見ていた。もぐもぐと動く顎髭を見ていた。そうでもしないと泣いてしまいそうだった。なぜだかはよく分からない。

 

「こんなんに付き合わせてごめんな」
最初の時よりも少し頬が柔らかくなったような顔で、改札前で向かい合う。脱がされることのなかったハリボテの私の服たちが、死ぬほどに恥ずかしかった。
「俺は浮気は悪いことだとも言わないし、エリカちゃんが復讐したい気持ちも痛い程分かるよ。分かるけど」
来た時よりも人が多い。学生くらいの集団がぼこぼこと入ってくる。近くに大学があるのだろうか。
「俺は浮気をさせたような自分を何度も恨んだし、浮気を白状させてあげられなかった自分を何度も憎んだ」
何事にも理由があるはずなんだよ、と真っ直ぐに私に語りかける。私の向こう側に、死んだ彼女がいるように。静かに。
「話し合えるうちに、ぶつかり合えるうちに、小さな芽は潰しておけよ」
親父くせー説教しちゃったわごめんなと小さく笑って、じゃあなとくるりとこちらに背を向ける。車をコインパーキングに停めたと言っていたカズトが歩きながらポケットから車のキーを出したのが確認できたところで、その背中はすぐに見えなくなった。

 

自分と同い年くらいの学生たちに紛れながらぼんやりとその背中のいなくなった方を見つめ、ハリボテのスカートのポケットからスマートフォンを取り出す。2回大きく息をつく。ぶつかり合えるうちに。迷いが生まれてしまう前にと、すばやく昨日塗り直した爪を画面上で滑らせる。
「あ、もしもし?あのさあ、顎髭生やす予定ないの?」
右耳の向こうから素っ頓狂な ええ何?顎髭??という声が聞こえる。カズトより半音くらい高い。
「うんそう。顎髭。似合うと思うんだけど」