馬堀海岸駅

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私じゃ駄目なことくらい、随分前から分かっていた。
分かっていながらちょっかいを出したのは私で、長い線を一本しっかり引いておきながらそこに乗ってきたのは舟木さんの方だった。だからといって舟木さんは責められないし、だからといって後ろ髪を引かれずに手を引くことなどできるはずがなかった。

「いつもラブホテルのシャンプーなんてして帰って大丈夫なんですか」
ラブホテルらしいちかちかと安っぽく色の変わるライトが浴槽の水面を照らすのを横目で見ながら、梨花は不愛想に尋ねる。これで三度目の舟木さんと二人でのラブホテルだった。舟木さんはいつも朝夕関係なく事後にはしっかりと頭と体を洗う。私が奥さんだったらこんなに甘い匂いが旦那の頭から香ったら発狂するだろう。幾度となく尋ねかけては飲み込んだ問いを今日はぶつけてみようと、しゃかしゃか軽い音を立てて頭をなでる背中を見つめる。
「大丈夫も何も、洗わないとどうしても気になっちゃうんだよね俺」
答えになってないじゃん。きっと家でもこんな風にのらりくらりとそこここに漂う疑惑をかわしているんだろう。呆れる。
江の島近く大通り沿いのラブホテル。藤沢に職場のある私達はよく仕事終わりに舟木さんの車でこの辺りをドライブしたり、休み前には今回のようにホテルになだれ込んで泊まることもあった。奥さんになんと説明しているのかは知らない。知りたくもない。舟木さんのプライベートについて尋ねたことは今までになかった。だって何か壊れるような気がするから。舟木さんに関して失うものなど、舟木さんすら手に入れていない私には何もないはずなのに。

外は明るくても、ラブホテルという場所は窓が閉め切られているからかずっと夜のような錯覚に陥る。それがなんだか自分の罪を隠しているようで、ラブホテルの自動ドアを潜る度ほっと安心する。無論どこにいても許されている訳などないのだけれど。

「今日はどこ行きます?」
私の問いに頭を洗い終えた舟木さんが一重の流れるような瞳をこちらに向ける。整った顔の裏側にこんな汚い一面があることを、職場の誰も、そして奥さんも知らない。私だけが共犯者のように寄り添って秘密を守っていると思うと、心が震えた。
「ちょっと行きたいところあるから付き合って。まだ多分酒残ってるから車はコインパに置いてくわ」
私は聞いておきながら特に返事もせず、黙って濡れて重くなった長い髪をもう一度ゆっくり搾って、さっきから目障りに瞬く浴槽に右足を突っ込んだ。


「え、何ここ?」
すげー地味な駅。聞いたこともないし読み方すら分からない。舟木さんはいつもの低い落ち着いた声で、マホリカイガンだよ、と言った。気がする。馬掘海岸。変な名前。
デコルテのしっかり出たワンピースを着た私と、Tシャツジーンズの舟木さんは、明らかにこの駅にそぐわなかった。どんな格好をしても私と舟木さんはこんな家庭的な雰囲気の駅にはそぐわないのかもしれない。
とても小さな駅で、改札から出たらすぐに細い通りに出た。夏は既に尻尾を見せ始めているというのに、今日はやたらと日が照っている。駅を出て振り返ると、青い空に赤い煉瓦がよく映えていた。こんな駅に一体なんの用があると言うのだろうか。舟木さんは何も言わずに長い足ですたすたと左方向に歩いていく。暑さと先の見えなさにうんざりした梨花はしばし立ち尽くしたが、渋々と後について歩き出した。

私と舟木さんが関係を持ったのはほんの偶然からだった。その時まだただの上司だった舟木さんは、まあ確かに私の中ではイケメンの部類だったし、何かの用事で話をすれば悪い気はしなかった。でもだからといって勿論狙おうという気はさらさらなかったし、何よりその指に誰かとの約束がちらついていることも知っていた。それにそんなリスクを背負う程男に困ってはいなかった。
ある日舟木さんが誰にもなんの連絡もなしに突然仕事を休んだ。社用のスマートフォンに何度電話をかけても繋がらず、上司はきっと何かしらの理由はあると思うが誰か家を見に行ってやれと言って、そこに白羽の矢が立ったのがたまたま居合わせた中で最も年下の私だったのだ。舟木さんは家によく会社の人達を招いてホームパーティをしていたし、藤沢から左程遠い場所ではなかったのもあり、家まで様子を見に行くということに誰も抵抗がなかったのだろう。
恐る恐る家の呼び鈴を押すと、しばらく静まり返った後不精髭がうっすらと生えた舟木さんがよろよろと出てきた。家の中には他には誰もいないようだった。後から聞けば奥さんと子供はちょうど彼女の実家に帰省していたらしい。舟木さんは40度近い熱があり、朦朧としていたため会社に連絡してから私が看病した。今思えばあの時から私と舟木さんの社会的理性は飛んでいた。多分二人ともきっかけを待っていただけだった。

駅を出て高速の下をくぐり、更に左折して大きな通りに出る。今のところ何もありそうにない。暑くて何も頭に入ってこない私はただひたすら舟木さんの後ろ姿を見ながらなぜ私と関係を持ったのかを考えていた。
いつか終わらせなければいけないことは分かっている。自分がいつか法に触れるようなことをするなんて考えたこともなかったし、そこまでして手に入れたい男なんていなかった。何が私を突き動かしたのか今でも分からなかった。きっかけがあったとはいえ、私と寝たということは他にも同じような相手がいるであろうことは否定できない。私はこんなリスクさえ背負っておきながら「たった一人」ではないということだ。この人と時間を過ごすことになんのメリットがある?この人のために全てを失うことになんの意味がある?どうしてやめられない?
ぐるぐると頭を働かせていたら眩暈がして、ふと立ち止まったら舟木さんが目の前に止まってこちらを見ていた。

随分と坂を上がってきた気がする。さすがの私でもかなり息が上がっていた。
梨花ちゃんさ」
舟木さんも息が上がっている。この人は息が上がっていても落ち着いて見えるのだから罪だ。はい、と返事をしたつもりが声が掠れて出ない。
「もう終わりにしようと思うんだ」
「え、」
「というか、俺転職して秋田の方に帰るんだ」
そう話す舟木さんの向こう側に青い海と船がたくさん並んでいるのが見えた。横須賀の海だろう。
この人は何を言っているのか。頭の中で舟木さんの綺麗な口元から発せられた言葉がカタカナのまま回っている。テンショクシテアキタノホウニカエルンダ。アキタ?アキタニカエル?
「...アキタニカエルノ?」
私の口からもカタカナでしか文字が出てこない。青い空気の中にふわふわと浮いているのが見える。舟木さんの耳に届いたのだろうか。漢字と平仮名にちゃんと直っただろうか。
「嫁の実家」

この景色を最後に見せてやりたかったと静かに話す横顔はやっぱり綺麗で、どんなに汚い内側を見せられても打ち消すことはできないのだと思い知る。舟木さんが小さな頃によく来ていた場所らしい。昔ここはただの空き地だったようで、今もその名残は残りながらも整地のされていない駐車場へと変わっていた。舟木さんはここに秘密基地を持っていたそうで、ここから見える景色は昔から左程変わっていないらしい。
「変わるものも変わらないものもあるけど、この景色を見る度に自分はどっちなんだろうってずっと考えてた」
私を抱いた手が、私に触れた唇が、私を撫でた息が、ぽろぽろと消えていく。
梨花ちゃんといる時間はすごく心地よくて、昔逃げ込んでたこの場所に重ねてたところもあると思う」
「何から逃げてたんですか」
漸く出た声は自分の声とは思えないくらい低く、案外事実を受け止めている自分を知る。
「嫁の親が認知症でさ、一生守っていくと決めた相手の親なのにどう接すればいいのか分からなくなって何もしなかった」
遠くにいくつも見えている船たちは動いているのだろうが遠すぎてずっとそこにいるように見える。私達の成り行きを息を潜めて見ているのかもしれない。
「でもこないだ突然俺の親が脳梗塞で死んで自分の親を差し置いてわんわん泣いてる嫁を見て、なんで俺はこれができなかったんだろうって目が覚めたんだ」
後半の言葉は震えていた。舟木さんの背中を撫でてあげられるほど、私はなんの悲しみも持ち合わせていなかった。せいぜい男と別れた悲しみが片隅に刻まれたくらいの小娘に何が分かるというのだろうか。舟木さんと近い気がして、本当はずっと遠い場所にいたのだった。そんなこと分かっていたはずだった。いつからこんなに傲慢になってしまったのだろうか。私は別れを告げられた自分の悲しみよりも、自分の愛する夫に自分の親の面倒をかけずに凛と待ち続けた女性の悲しみを思った。こんな小娘が夫の周りをうろついていても、甘い匂いが夫の頭から香っていても、きっと何もかも知っていながらも愛する夫の愛する親が死んだ時に泣けるほどの強さと大きな悲しみを、彼女はちゃんと懐に入れていたのだ。私が同じ土俵になど立てるはずがなかった。
誰かを愛し抜く覚悟というのはきっと想像を絶するものなんだろうし、それは相手の背後に存在する形のないもの全てを一緒に背負うことなんだろう。小手先で男を誘惑して自分の存在欲求を満たしてちやほやされている自分が酷く惨めだった。

また、はないけどまたね。と舟木さんは柔らかく笑った。あと数日会社で顔を合わせる舟木さんは、もう私の知らない舟木さんのはずだ。ありがとうもごめんなさいもお互いに言わなかった。どちらが悪かったかなど今となってはどうでもよかったのだと思う。先に坂を下りていく舟木さんの背中の横で、まだ船たちが悠々と漂っている。いつか一人でこの馬堀海岸駅に降り立ったその時には、ちゃんとこの場所に相応しい足でここまで坂を上ってこよう。その時までこの船たちも待っていてくれるだろうか。幼くむき出しになった自分のデコルテを軽く手で隠して、舟木さんの消えていった方に小さくお辞儀をした。