八丁畷駅


f:id:ukax:20190409202323j:image

 

もう嫌気がさしていた。そこに弁解の余地などなかった。 なんと言われたって、泣きつかれたって、 頬をぶっ叩いてでも終わりにしようと決めていた。


真昼間の八丁畷。 頭の悪そうな女子高生たちが駅前のファミリーマート前に自転車を 停めて黄色い声をあげ、 すぐそこで乞食のような男が煙草をふかしている。 川崎の治安の悪さはこの数年でよく分かっていた。
高橋は京急川崎の駅が最寄りのはずだったが、 なぜ今日ここを指定されたのかはよく分からない。 高橋の家に遊びに行く度キャッチに捕まりナンパに捕まり嘔吐する サラリーマンを見かけ道端で寝ているホームレスを見かけた。 そんな風景を見て「何が良くてこんな街に住んでんの。 早く引っ越してよ」とせっつく私を高橋はいつもなだめ、「まあ、 ゆくゆくね」と何でもないことのように答えていた。… 思い出したらまた苛々してきた。


高橋、という呼び方は、 先輩後輩の関係の頃から付き合い始めて今までずっと変わったこと がない。高橋は一年年下、私は一年年上。高橋は私のことを「 先輩」だった時は沙也加さん、「恋人」になってからはさや、 と呼んだ。高橋が私を呼ぶ時の声はいつも甘く、 付き合いたての時は呼ばれる度に目を細めたものだった。 彼の私を呼ぶ声は今だって変わらないのに、 何が変わってしまったのか。私なのか。彼なのか。


高橋から指定された時間まではまだあと10分ほどあった。 私が別れを切り出すために呼び出したはずなのに、 なぜ彼が場所も時間も決めたのか。今考えてみれば変な話である。 彼にはいつもそんなところがあった。飄々としていて、 さらっと聞き流しているとあたかも全て彼が正しいかのような錯覚 に陥る。彼が「俺は働かないから就職しない」と言い出した時も、 突然すぎたのは勿論のこと、 堂々と嬉しそうに言うものだからつい「あ、そうなんだ」 と頷きかけた。
一方の私は年上だからもう社会人として両足を踏み込んでいて、 けれども夢を諦めきれなかった結果、 小さな子供用品店で広報係として簡単なイラストを描いていた。 イラストレーターでそう簡単に食っていけるはずがないと分かって いたし、そちらが本職ではなく販売員がメインであっても、 少しでも絵が描けるならとここを受けた。ここに決まった時、 高橋はなんと言ったんだっけ。 たった一年前のことなのに思い出せない。 そんな癪なことを言われたのだったか。そんな気もする。


夢を追うということがどんなに難しいことなのかは、 誰よりも自覚しているつもりだった。 この世に必要とされているイラストレーターなんて分母が限られて いるし、 そのほんの一握りに自分が入れるなんて思えるほどロマンチストで はなかった。
八丁畷駅で、と言われたはずだったが、 黙って待っているのも癇に障るのでてくてくと歩き出す。 私のことを探せばいい。全部手に入るなんて無理だって、 思い知ればいい。私はあなたの思い通りにはならない。 それでも彼は余裕な顔をして「そうか、じゃあさよならだね」 なんて笑うだろうか。そうしたら私はどんな顔をするだろうか。


土地勘のない私は、 とりあえず先ほどのファミマを右手に大きな通りに沿って歩き出す 。車の通りは多く、 小さな駅の割には需要のありそうな場所である。 春の匂いがほかほかと漂ってきている中、 私はおろしたてのネイビーのトレンチコートの袖を軽く捲った。 別に高橋のためにお洒落なんてしてきた訳じゃない。 最後に綺麗な私を記憶に留めさせて、後悔して欲しかっただけだ。 そうは言っても白のコンバースのハイカットに薄い青の滲んだボー イズデニム、 白のシャツといったいつも通りのラフな格好ではあるのだが。 最後まで一目で気合が分かるものを着てこられるほどかわいい女に はなれなかった。 せめてものおニューのコートとそれに合わせた塗りたてのネイルカ ラーと少し背伸びした大振りのイヤリングに、 心の奥底でごめんねと呟く。


どうやら上を電車が走っているらしい大きな音の下をくぐるともっ と大きな通りに出た。ちょうど青信号が瞬いていたので、 慌てて小走りで渡り始める。と、 そこでちょうど最近画面にヒビが入った私のスマートフォンが鈍い 音を立てて震えた。
「…なに」
息が荒いことに気づかれないように、一言発する。 今さっき私が走ってきたところを、 大きなトラックがぐわんと時空を揺らして通り過ぎてゆくのを横目 で見ながら、あーあ、と思う。 本当に心配させたいなら電話になんて出なければいいのに。 私はこんなだからナメられるんだな。
「どこにいんの?俺今ナワテ着いたよ」
八丁畷のことをナワテなんて略すのだろうか。 どうせまた適当言ってるんだろう。
「今もう歩き始めた」
「え、どこに?ていうかどうしたの、怒ってんの?」
高橋の声が穏やかに耳をくすぐる。こんな時にも呑気な奴。 横断歩道から真っ直ぐに続く道を歩きながら、確かにな、 私はどこに向かって歩いてるんだろうなとぼんやり思う。 一言さよならを言えばいいだけなのに、 こんなことをして時間を延ばしたってなんの解決にもならない。 くだらない女だな。
「でもその音、大通りの方だろ。 今から行くからそこで止まっててよ」
「…うん」
気持ちと言葉がちぐはぐに青い春空に飛んでいく。 素直になりたくない気持ちと素直になりたい気持ちと、 どちらが勝ったら高橋とさよならをせずに済む?いや、 どちらでも今更もう答えなんて変わらないのか。


同棲をしたい、 結婚をしたいと口にする回数が多いのは高橋の方だった。 私も勿論したくない訳じゃなかったけれど、 やはり彼が年下なこともあってどれだけの現実感があるのかが分か らず、まだしばらくは夢でしかないと思っていた。 それでも高橋に何度も何度も言われているうちに、 確かに高橋とだったらいいのかもしれない、 高橋も真剣に考えてくれているなら左程遠い未来ではないのかもし れないと期待を抱くようになっていた気がする。その矢先だった。 就職をしないと言い出したのは。突然バンド活動を始め、 私になんの話もないままバイトを毎日入れ始めた。 理由を問い詰めても「やりたいことをやることにした」 の一点張りだった。
やりたいことってなんなのだ。 私はやりたいことを我慢して妥協してお金を稼いでいるっていうの に。それでいて私とやれ同棲したいやれ結婚したいなんて、 ヒモになりたいということなのか。 高橋に問えば問う程私たちの距離感は離れていったし、 高橋も口を閉ざした。分かっている。 私は自分で選んで夢を捨てただけだ。 高橋のためなんかじゃないし、 高橋にそうしろと言われた訳でもない。要は、 ただの僻みでしかない。それでも、 私のこんな辛さだって理解して欲しかったのだと思う。 一緒に犠牲を払ってくれるだけの愛が欲しかったのだと思う。 それから高橋の全ての言動が、許せなくなってしまった。


さっきの大きな横断歩道をゆっくりと渡ってきた高橋は、 勝手に歩き出した私を叱るでもなく、穏やかに「 今日あったかいね」と私を覗き込む。
「…そうだね」
「ナワテ初でしょ?どう?」
「どうって…」
自分の凍っていた心がじゅわじゅわと溶けていくのが分かる。 これだから嫌なのだ。高橋と直接話をするのは。 彼のペースに見事に飲まれる。
今日の高橋を横目でそろりと眺めるといつもの通りのカジュアルさ だが、 見たことのないお洒落目な七分丈ズボンに見たことのないお洒落目 なオックスフォードシャツを着ている。 バレない程度に気合を入れてきているのが分かり、 不安な気持ちが体を隙間風のように通り抜ける音が聞こえる。 高橋も何か私に大事な話があって呼んだのだろうか。まさか、 先に別れを切り出すつもりなのだろうか。 穏やかに口角をあげる横顔からは何も伝わらない。


「ほら見てここ。俺のお気に入りの公園なんだ」
考え事をしているうちに目的地に着いたらしい。 特にこれと言って特徴がある訳でもないごく普通の公園。 さほど広くはないが、 住宅街の中に紛れていることもあってかとても居心地が良さそうだ 。
「…川崎らしくないね」
「さや、気に入った?ならよかった。本当は川崎新町駅が一番近いんだけどね。散歩に丁度いい距離感だったでしょ?」
気に入ったなんて単語は一度も口にしていなかったが、 高橋は満足そうに公園に足を踏み入れた。けれど、 今はこんな居心地が良くなっている場合ではない。早く、 もっと飲まれてしまう前に言わなければ。
「高橋…」
陽だまりの中で、高橋が聞こえてか聞こえずか「ん」 と呟いてふわりとこちらを振り向く。そうだった。 私はこの人の返事や相槌の打ち方が大好きだった。 私がなんの話をしても否定せずにうんうんと首を縦に振り、 名前を呼べば必ず「ん」と呟いて振り返った。
「お腹空いただろ。ファミマでおにぎり買ってきたから食おうよ」
何も知らずにコンビニの袋を私の前に掲げる高橋の向こうで、 貨物列車が音を立てて通り過ぎていった。


「俺、言わなきゃいけないことがあるんだ」
来た。と思った。終わりだ。 私の態度が最近おかしいことはいくら疎い高橋だって気づいていな いはずがなかった。頭の中がすうっと冷たくなり、 言葉が文字を成さなくなっていく。 すぐ近くにある砂場に三角でかたどられた砂の塊が並んでいるのを ぼんやり見つめる。
「待って。私から言わせて。」
「いや」
「もう無理だからさよならしよ」
高橋の遮る声を更に遮って告げる。 高橋の顔が薄っぺらくなっていくのが分かる。 迷っていたら言えなくなると思った。先に言われたくなかった。 でも、それ以上に高橋と時間を過ごせば過ごすほど、 言えなくなると分かっていた。 自分の言った言葉にショックを受けて何も言えなくなった私を高橋 はしばらく呆然と見つめた後
「俺はさやに夢を叶えてもらいたいと思ってるんだ」
と小さく、春風に飛ばされてしまいそうな声で呟いた。


高橋が私の夢を否定したことってあっただろうか。 私が就職が決まった時。そうだあの時。思い出した。 神保町の喫茶店で、 内定をもらいこれでいいのだと自分に言い聞かせていた あの日も、高橋は確かに今日と同じ言葉を私にくれた。 それでいいはずがないことなど、私は勿論、 多分高橋もよく分かっていた。
「俺はさやに夢を叶えてもらいたいと思ってるんだ。 さやの絵のファン一号はずっと変わらずに俺だし、 必ずいつかはイラストで食っていけるように二人で頑張ろう」
なのに。 なのに私は高橋の夢など無視して就職就職と騒いで挙句の果てには 別れを切り出したというのか。
自分の都合の良さに眩暈がして、 取り返しのつかないことを言ってしまったと涙腺が震えた瞬間に、 高橋の低く優しい声が頭の上から降ってくる。


「俺、調理師の学校に通うことにしたんだ」
「…調理師」
まだ自分の声が震えている。 公園に犬を連れたおばあさんが入ってくるのが見える。
「そう。だから就職はしないってさやに言った。 喫茶店を開くのが夢で、 そのためにはやっぱり形のある資格を持たなきゃ駄目だって思った んだ」
体から力が抜けていくのが分かる。 どうしてそれを早くに言ってくれなかったの。 どうして私がこんな欲まみれになる前に相談してくれなかったの。
「やるからには本気でやりたいと思ってるから、 近々海外留学も考えてる。 まだ曖昧な段階でさやに話したらパニックになるかもしれないと思 って言えなかった、ごめん」
だから、と言って高橋が一息ついて長い睫毛を伏せる。
「俺が調理師の資格を取って無事店を出せた暁には、 さやの絵を飾って画廊喫茶店を開こう。それを信じて、 もう少しだけ待っていて欲しい」


夢だけでは終わらせないから、と小さく、でもしっかりと発した言葉に泣き崩れた。何も見えてなかった。私はいつだって目の前のよく見えるところしか見ていない。そして端的に判断する。この川崎の街だって、こんなに優しい一面があることを知らなかった。高橋は。高橋はいつだってちゃんと見えていたんだね。今だけじゃなくて、先のことも、私のことも。ごめんなさいごめんなさいと繰り返す私の背中を高橋はずっと撫で続けた。


「さっきさやが言ってくれたさよならはさ」
漸く嗚咽が落ち着いてきた自分の体が、新しくおろしたネイビーのトレンチコートが、高橋の奥に見える砂場に並んだ尖った砂の塊たちが、全てが聞き慣れた低い声を聞いているようだ。今この世界には私たち二人だけなのかもしれない。
「漠然と夢を追いかけてた二人へのさよならにしよう。これからは目標に向かって進むだけだ」
掠れた声でそうだね、と言って、年下だったはずがいつの間にか頼もしくなった頬に、触れるようにキスをした。


さよなら。夢に揺れた私。