高田馬場駅


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彼女を知らない人はいなかったと思う。大して異性に興味のない俺ですら知ってたんだから、恐らく。彼女は入学当時からちょっとした有名人で、「春香さん」という名前らしかった。このマンモス大学の中、学部も違った俺が彼女の名前を知っているだけで彼女がどれほど目を引いていたか分かってもらえるだろう。ただ不思議と、苗字は耳にしたことはなかった。「春香さん」という名前だけ、この広いキャンパスに静かに轟いていた。

 

電車でちょうど一時間くらい。自宅から大学の門をくぐるまでのその時間が、受験期の過去の自分の苦しみと向き合い続ける時間だった。だってこんな汚い駅に来るつもりはなかったのだ。もうすぐここに通い続けて一年半になるけれど一向に慣れないしまだ認められない自分がいる。朝は生きているのか死んでいるのか分からない人間が寝そべり、夜になると恐らくそのような屍になる寸前の大学生がそこらで嘔吐しているこのロータリーは、大学生という青臭さの塊のような場所だった。周囲の友人や家族は楽しいサークルに入って良い会社に入ればこの大学に入ってよかったと思うさと呑気なことを言い続けたが、一方俺は結局この十字架を背負い続けながら重い足を動かし続けた。ここまでの過程がどんなに素晴らしくても、高校で遊び歩いて先生に良い顔していただけで推薦枠を得た奴らと同じ文字列が俺の肩には並んでいる。

ちょうど通りすがった大きなカラオケ屋の扉が開き、ぐわんぐわんと音がするくらいの冷房の風を頬に感じながらふと自分の肩を見る。当然そこには文字が乗っているはずもなく、ギターケースのベルトが黒々と食い込んでいた。ライブまではあと一カ月を切っている。覚えなければ。漸く自分を赤本に埋もれた景色から引っ張り出して振り切るように足早に歩く。

 

「あっ遠藤さーん」

俺の所属している音楽サークルは比較的緩く春だけではなくて秋にも勧誘活動をすることもあり、ぽろぽろとキリの悪いタイミングでも新しい顔が増えていく。新入生の顔を覚える気のない俺は、それでも幹部になってしまったので大学内を歩いていると時々見知らぬ顔に声をかけられる。まだ最年長学年ではないから幹部に入っている二年は俺ともう一人会計の女子だけだが、なぜこんな大きなサークルでやる気のない俺が選ばれたのか甚だ疑問しかない。どこからか呼ばれたような気がして周りを見渡すが、今回もやはり見知った顔はいない。

「こっちこっち」

真後ろから肩を叩かれ、振り向くとどこかで見たことのあるようなないような背の低いショートカットの女の子が嬉しそうに立っていた。ああ、とぼんやりした返事を返すと、自分が誰だか理解されていないなど微塵にも考えていないような笑顔のままハキハキと俺に言葉を投げ返す。

「今日遠藤さんのバンド練習日なんですね」

「そう。このクソ暑いのに馬場からこいつしょってきたんだよ。まじきつい」

カラッとした笑い声が汗だくの俺の胸辺りに降りかかる。女という生き物は暑さを知らないのだろうか。

「私の友達が秋にサークル入りたいって言ってるんですけど、ちょうど今日暇って言ってたし練習ちょっと一緒に見に行ってもいいですか?」

 バンドメンバーの気合の入った顔が浮かんで、まあいいけど、と答える。こういう俺の煮え切らないやる気のなさは所詮最初からこの大学程度がお似合いだったんだと頭の中の誰かにちくりと言われぐうの音も出ない。

 

今日最後のコマの授業が終わり練習室のある学生棟に向かう途中、スマホを開いたら「マキ」という名前のアイコンからメッセージが届いていた。さっきのキラキラした笑い声を思い出す。練習室が何号室かどうかを聞く旨の連絡で、返信を打ったついでにバンドメンバーとのグループに見学者がいることを伝えるメッセージも送る。現代はリアルタイムで他人とやり取りができる分、必要事項を確認し合うタイミングが異様に遅くなっている気がする。さっきやり取りした時に何号室かを聞けばよかった話だし、俺だってさっき廊下でバンドメンバーとすれ違った時に何も言わなかった。ある日突然全世界のSNSが消えてしまったら人間たちは本当に大切な人たちとどうやって無事を確かめ合うのだろうか。ひと昔前なら出てきた手段が、今ではもう通用しなくなっているだろう。そんなどうでもいいことを考えながら、受付のおばさんから練習室の鍵を受け取る。

学生棟は音を出したり踊ったり所謂サークル活動をするための部屋が蜂の巣のように集まっている。俺らが練習する部屋は大体が地下。だったら蜂の巣というより蟻の巣と言った方が似つかわしいかもしれないな。無機質な階段を下りながら小さくため息をつく。確かにサークルは楽しいし、音楽をしている間はコンプレックスも消える。それでもカビのように頭の隅にこびりついたプライドが俺を許すことはなく、どうしても自分だけが地面から数ミリ浮いているような感覚になる。いや、俺が地面に沈んでいるのか。

 

バンドメンバーが明らかに目尻を下げている姿を横目で見ながら、冷めた脳味噌でギターを弾いて恋愛の歌を歌う。さっきのマキという女の子は俺たちを「サークルの中で一番アツいバンドだよ」と紹介してきて、流石の俺でも手に汗をかいた。確かに俺は置いておいてもサークルの中では上手い奴らだと思うし、音楽にこだわりのある面々だからそこそこ真面目に練習をしている。でも初見の、しかもたった一つ年下の女の子にそんな先入観で見られると思うと期待を裏切れないという男のプライドが嫌でも顔を出す。お尻の下にあるパイプ椅子がどろっと溶けていく感覚を感じながら、芯を固形のまま保とうと必死に耐えた。

「カッコよかったです、ありがとうございました」

マキちゃんが連れて来たロングヘアの女の子が、低い声でしっかりとお辞儀をする。華やかで大きい胸をさらに強調するような服を着て、言葉を選ばずに言うのなら所謂男の目を引く要素をこれでもかと詰めているマキちゃんと、それに不釣り合いなほど地味で静かな感じの子だった。よくよく見ると控えめな目は黒目がちで鼻筋も通り綺麗な顔をしている。それでも本人の性格の問題なのだろう、すっと空気に溶け込んでいるような印象を受ける。そのままマキちゃんと背中を向けようとするので慌てて「名前フルネームでもらっていい?あとラインも」と声をかけた。ひやっとした黒目がこちらを振り向く。その黒目はマキちゃんとは違って、こちらに愛想良く笑いかけることをしない。最初にマキちゃんはなんと紹介していただろうか、下の名前すら思い出せない。

「シンドウ、シノと申します。マキ、ラインを後で遠藤さんに送ってもらっていい?」

真っ黒な髪をさらっとなびかせてしんとした空気だけを置いたまま、気づくとドアは閉まっていた。

 

その日の夜にマキちゃんから来た連絡先には「新藤志乃」と書かれており、アイコンはあの黒々としたロングヘアの後ろ姿だった。なぜ女の子はみんな後ろ姿や横顔、顔があまりはっきり見えない写真をアイコンに選ぶのか、その謎は学生のうちには解けそうにない。なんのためのアイコンだと言うのか。

味気のない自分の部屋でこうして一人で暇を持て余していると、またこんな場所にいるはずではなかったと無数の俺が大合唱している声が地面を揺らしてくる。学歴コンプレックス。この世には数多くのコンプレックスがあり、つい先日見たテレビではローランドが「コンプレックスがあるほどそれをエネルギーにして成功する奴が多い」と言っていた。確かにそうかもしれない。それでもそれを上手く燃料にすることができないままぷすぷすとガス漏れを起こしている人間も腐るほどいる。俺だって仮面浪人という選択肢もあったし、やり様はいくらでもあった。それでもこの重い両足が動かない理由をいくつもいくつも並びたててはこのベッドに戻ってきた。俺のせいだ。他の誰のせいでもない。そんなことはとうに分かっている。

 

新藤さんは結局あの後すんなりとサークルに入部した。マキちゃんはみんなから「マキちゃん」と呼ばれている一方で、新藤さんはずっと「新藤さん」だった。確かに入部して一カ月も経つとだいぶ慣れてきて最初までの距離感は感じなくなったものの、どうしてもずっと一枚の壁越しに話しているオーラは拭えなかった。本人もそれを望んでいるような雰囲気があったし、みんな深くは関わらなかった。俺も勿論。でもなんとなく顔や名前の覚えられない新入生の中で、なぜだろう新藤さんだけはいつも俺の彩度の低い眼球には少しだけ鮮やかに見えていた。

 

それは俺の代の奴と俺、新藤さん、新藤さんのバンドメンバーの帰りが偶然一緒になった時だった。俺は大体他人の言葉に相槌を打つ役なので、歩きながら自然とよく話す二人の一列目、俺と新藤さんの二人で二列目という並びになった。一対一で新藤さんと話すのはこれが初めてだった。

「遠藤さん、馬場ですか?西早稲田?」

「俺は馬場だよ。新藤さんは?」

私も馬場です、と答えた横顔をちらっと見ると、伏し目がちの睫毛が思いの外ばさっと長くて少し鼓動が乱れる。

キャンパスから帰ると先に西早稲田の駅が来て、ちょうど西早稲田までの距離の二倍くらいの位置に高田馬場駅がある。副都心線が通るようになって埼玉の奴や神奈川の奴が西早稲田を使うと便利らしく人がわさっといなくなるので、まとまって帰っていてもそこで一度お開きのような状態になるのだ。

西早稲田までの真っ直ぐな道は、後半の高田馬場へ向かう道と比べ静かでとても落ち着いている。左側に学習院女子が見えてくる。ここから更にしばらく歩いて、大きな交差点が出てきたら後半のうるさい高田馬場ワールドの始まりだ。

「新藤さんって休みの日とか何してんの?」

ふと脳を通らないまま出た言葉に、慌てて あ、深い意味はなくて と付け足す自分が情けない。

「ほら、新藤さんってちょっと謎めいたところがあるというか。アフターもいつも早めに帰るし。実家なの?」

「あー、」

新藤さんの目が少し泳ぐ。泳ぐ?そんなまずい質問したか俺。

「一人暮らしですよ。アフター早く帰ることにはあんまり深い意味はないです」

「…彼氏と同棲してる、とか?」

と聞こうと「かれ」まで声に出したところだった。

「あれ、志乃?」

後ろの方からよく通る声が飛んできた。ふと振り返ると、あの「春香さん」がこちらに向かって歩いてきていた。身近に初めて見る姿に少したじろぐ。前を歩いていた二人も足を止めてこちらを見ている気配を感じる。

「春香さん」はきゅっと結びあげたポニーテールの毛先を上品な程度に巻いていて、こちらに一歩踏み出す度に細い首の向こうに揺れている。運動系のサークルに所属しているのか上はスポーツジャケットのようなものを羽織り細身のジーンズを合わせていて、どんなに彼女を持ち上げても着飾っているという言葉とは程遠い場所にいるにも関わらず一際この世界から祝福されていた。時が止まったようだった。

「春香さん」が新藤さんの前までたどり着いて初めて、世界の時間がゆっくり動き出す。新藤さんの隣で石のようになった俺をちらりと一瞥して、会話の邪魔してごめんなさいねというようにぺこっと美しいお辞儀をする。

「今帰り?私この後アフター寄って帰るから、ごめんけど夜ご飯食べちゃっていいからね」

確かに「春香さん」の後ろから同じような格好をした男女がダラダラと歩いてくるのが見える。

「…分かった」

新藤さんは素っ気なく一言小さく呟いて、俺に目もくれずに 私やっぱり西早稲田から帰るので。お疲れ様です。と誰にともなく言うや否やいつの間にかすぐ目の前にあった地下鉄のエスカレーターに吸い込まれていった。

 

その後新藤さんはぱったりサークルに来なくなった。

 

後々サークルの中では噂好きな連中や「春香さん」と同じ学部の奴らが「春香さん」と新藤さんはどうやら姉妹らしいという情報を仕入れてきていた。なぜ今まで誰もその事実に気づかなかったのかは謎だが、確かに顔はあまりにも似ていない。それに、あの感じだと新藤さんも率先してひた隠していたのだろう。理由は誰の目から見ても明白だった。それにここまでの情報が出回ってしまった以上、この空気感のサークルに来たくないと感じるのは至極当然のことのようにも思う。「かわいそう」とか「傷物」だとは全く思わないし、新藤さんの魅力を知っている俺からすればそんなの気にすんな、新藤さんはそのままで十分素敵だと一言言ってあげたかった。それで救われるのかどうかは定かではないが。

 

二年目も飛ぶように過ぎ、三年目を目前に待つ春が来ていた。新歓のライブを控えた今、新藤さんに連絡するなら今しかないと思い昨日の夜に入れたメッセージの左下には既読の二文字が控えめにぽちっとついただけだった。

『来週新歓ライブがあるけど、来ない?新藤さんが入部した時にやった曲久しぶりに演奏するよ』

ここまで連絡ができずにいたのは、また俺の意気地なさが出てしまった。きっかけがないと動かない手。大きなコンプレックスを抱えている癖に決めきれない足。結局それは受験だけではなく、こんな風に日常生活でも選択肢を狭め続けているのだろう。こいつらのせいで俺に最後の最後に残される道は一つくらいしか残っていないかもしれない。それも、きっと無難中の無難の道か誰も登れないような先の見えない山か、そんな道なんだろう。

 

「えんでぃー昼飯どうする?昼後授業入ってんの?」

「いや今日は空きコマ。食い行こうぜ」

俺のことをえんでぃーなんていうふざけたあだ名で呼んでいるのはバンドメンバーだけだ。別にあだ名なんてどうでもいいけど。

わらわらと空気が動き始めた講義室はマンモス大学らしい綺麗な広い場所で、重さを失った椅子たちは文句も言わずに勝手に閉じていく。いつもこの閉じていく椅子を見ているとちゃんと親孝行しないとなという気持ちになってくる。子供を持つということは非常に重荷なことなんだろうが、少し前に実家に久しぶりに帰った時のどこからともないもぬけの殻感を今でもありありと思い出す。怒られてばかりだった俺から見たら、子供が出ていった後は両親二人楽しくせいせい暮らすのだろうと思っていたのに、あんなにしんと静まり返った家を見ているともっと帰ってこなければというよく分からない使命感に駆られる。

適当にリュックに教科書を突っ込んでいるバンドメンバーの姿にふと問いかける。

「なあ新藤さんってさ、かわいそうなのかな」

手を止めて は?お前何言ってんの?と聞き返される。

「どう考えてもかわいそうじゃね?姉貴があんなかわいかったら絶対比べられるじゃん。なんで同じ大学になんて入ったんだろうな」

別にブスな訳じゃないのに比較の問題で地味に見えちゃうのってどうしようもないもんな、と勝手に納得している彼を見ながら、新藤さんと「春香さん」を頭の中に直立させた。うん、俺はやっぱりそれでも新藤さんがいいけどな。

 「それにしても春香さん本当かわいいよなあ、読者モデルしてるらしいぜ。なんかの間違いで付き合えねえかなあ」

お前はモデルの彼女がいる男っていう肩書が欲しいだけだろと笑いながら立ち上がったら、俺の尻の下にいた椅子がきしっと小さな音を立てながらぱたんと閉じた。

 

この広いキャンパスで特定の誰かを一方的に意識的に見つけるのはかなり至難の業だ。その日並木道の下で花粉症で出るくしゃみを必死にこらえながら歩いていたら、遠くの方に新藤さんの黒髪がちらと見えた。今しかないと思った。

「新藤さん」

見慣れた冷めた黒目は、驚いたように大きく見開いた後に俺を捉えて失望の光を宿す。でも逃げることはせずに、大人な彼女らしく

「あ、遠藤さんお久しぶりです。最近サークルに行けなくてごめんなさい」

とさらっと会釈をした。こうやって距離を保ち続けることは、彼女自身を固く固く守ってきたのだろう。

「こないだメッセージ送ったんだけど見た?」

「ああごめんなさい忙しくて、返信してませんでしたよね」

しつこくてうざい先輩って思われてるんだろうな、と思ったけど口が止まらない。

「今度昼飯でも行かない?昼後がお互い空きコマの時とか」

黒目の中に巣くっていた失望の光が、また驚きの色へぱっと変わる。新藤さんは白いトレーナーに白いセンタープレスのズボンを履いていて、黒い髪と黒い目が良く映えていた。上品だけど、決して目立たない服、色味、デザイン。何かの間違いで姉より目立たないように。慎重に、丁寧に。

「姉と繋いで欲しいのなら、そういうのは断ってって言われてるのでごめんなさい」

合わせていた目をさりげなくそらしながら新藤さんの口から出た想定もしていなかった返事に今度は俺がたじろぐ。

「そうじゃない。新藤さんと行きたいんだけど」

思っていたよりも感情が入り混じってしまった俺の声色に気圧されたのか、新藤さんは観念したように はい、と答えた。

  

 少し肌寒くて、もう春の風物詩のライブが迫っているというのに小さく身震いをした。今日の昼に、新藤さんと大隈講堂前で落ち合うことになっている。1限から入っている曜日だったので朝バタバタと支度をして、ついおろしたてのシャツを着てきてしまった。軽率だった。これでは気合が入っているのが見え見えである。休みの日を一日もらうには、サークルの男女の先輩と後輩というのはなかなか危うい関係であるような気がした。奢り奢られで権力の差が出てしまってもいけないし、先輩後輩でその後の活動のことを思って断れない関係が生まれてしまっても怖い。いや、既に新藤さんは断れない立ち位置にいるだろうか。

悶々と考えながら午前中の授業が終わり、早々にいそいそと大隈講堂に向かうともう新藤さんは待っていた。黒無地の薄手のセーターにカーキ色のコーデュロイパンツ。この前と違って大振りのイヤリングをしているのが見える。

強張りながら近づくと あっ遠藤さんこっち!と案外明るい声で呼ばれる。

「ごめん、待った?早めに終わったと思ったんだけど」

「いえ、私今日午前中のコマ偶然休講で暇だったんです」

念のため言っておくが童貞ではない。そこそこには経験もあるし、まあまあにはモテたこともあった。それでもなんだか新藤さんの前ではいつも余裕がなくなってしまう。落ち着いているからか、なんだかペースを見失う。

門から出て大体5分かからないくらいの静かな裏通りに、GOODMORNINGCAFEというなんとも女子ウケしそうなお洒落なカフェがある。多分チェーン店だと思う。お洒落ながらもハンバーガーがあったりして、フランクに入れるので個人的には割と気に入っている。そこでもいい?と聞くと、行ったことないので嬉しいですという模範解答のような返事が返ってきた。

 

「私、勝手に妬んでるだけなんですよね」

お手拭きで丁寧に手を拭きながら新藤さんが唐突に言う。

「あれでもっと性格悪くて救いようがなかったらまだここまで気にしてないんだと思います」

なんと言えばいいのか分からなかったけど、会話が終わってしまわないように無難な相槌を打っていく。俺がこの静かな空気を壊すことで、新藤さんがハッと気が付いて全てが水の泡になってしまいそうで怖かった。そのくらいの儚さを醸し出していた。

けれど突然新藤さんがちょっといたずらっぽい笑顔になってこちらを見上げる。

「皆さんここまでは知らないと思うんですけど、実は姉と言いながら春香と私は双子なんですよ」

「え、そうなの?」

似てないねという言葉が危うく喉まで出かかって必死に引き留める。

「そうなんです、似てないでしょう?私のことを誘ってくれた遠藤さんだけに特別エピソードですよ。内緒にしてくださいね」

と、いうことはと少し店内に目線を泳がせながら考える。新藤さんは俺と同い年ということか。どうりで後輩感がない訳である。大学生は大人と子供の間の微妙な年齢だけど、個人的には一つの年齢が最も大きく感じる年頃であるような気がしている。浪人生も留年生もいるから年齢も学年もごちゃ混ぜながら、案外誰が上、誰が下というのが見えやすい。

カフェにはちらほら早稲田生がいるだけで割と静かで、今流行りの配管がむき出しの天井が白く眩しかった。

新藤さんが自らここまで話をしてくれたのは、俺が何を考えているのか分かっていたからなのだろう。あえてこんなに明るく話してくれているのはどこまでも大人で、どこまでも控えめな彼女の性格を表しているようで心がピリッとする。

黙ったままの俺をしばらく見つめ、

「コンプレックスって」

と先ほどとは違う声色で新藤さんが呟く。

「一度生まれてしまったら消えないものだと思うんです。周りの人がどんなに気にしていなくても、自分にはものすごく巨大なものに見える。自意識過剰だと分かっていても気にしちゃうんですよね。気にしないよとか大丈夫だよとか曖昧な言葉をどんどん信用できなくなっていくけど、周りの人はそれほど大きな意味でかけている言葉じゃない。それでも私、遠藤さんだけはいつも私だけと話してくれてるような気がしてて、ずっと救われてました。だから余計春香と私が遠藤さんの目の前に並ぶことになっちゃった時に打ちのめされちゃった」

ちょうど新藤さんの言葉が終わったタイミングで、店員の女の子がハンバーガーを運んできた。俺は顔を上げられずに、ずっと店員さんの黒い店のロゴの書いてあるエプロンを見つめていた。恥ずかしかった。

 

俺に言われているようだった。

同じコンプレックスでも、俺のものはなんて醜くて小さいんだろう。

新藤さんは早稲田にどうしても取りたい授業があったらしく、春香さんが先に入学したことを知りながらも浪人までして早稲田を選んだらしい。確かにまだ春香と比べられる世界線に立ち続けなきゃいけないのかって何回も迷ったけどね、と力なく笑った。一方俺はというと、他の選択肢を両腕に抱えきれないほど持ちながらも、浪人する勇気も勢いも持ち合わせないままにどんぶらこと流されて入学し、自らの足で選んでそちらへ進んだにも関わらず必死に目に見えないもののせいにして喚き散らしていた。一体何を見てきたのだろう。何を汚いと罵ったのだろう。いや、もはや自分の足で選んだとも言い難い。これではただの流木だ。足も意志も持たず、たった一つ持ち合わせた脳味噌で文句ばかり垂れていたのだ。そんな人間が一丁前に励ましてやりたいなど、どうしたら新藤さんに顔向けできようか。俺は何と戦ってきたのだろう。赤本の前で枯れるほど泣いた過去の俺に何を返してやろうとしていたのだろう。そもそも何かを返してやろうなどと思っていただろうか。今の自分の体裁を整えることだけにこの二年間費やしてきたのではないか。

 

最後のコマがあるからと言い、まだ最後のコマまでは時間があったけれどぴったり3時に門に帰ってきて、新藤さんは俺に手を振った。同い年だからと言った俺の言葉に応じて語尾が丸くなった新藤さんはなんだか新鮮で、ちょっと照れ臭かった。もう今日の授業がない俺は、しばらく新藤さんが並木道を凛と歩く後ろ姿を見送ってから、高田馬場駅へと足を踏み出す。

いつも汚い青臭いと眉をしかめながら通っていたあのロータリーは、今日どんな風に見えるだろうか。きっとあのカラオケ屋はいつも通りうるさくて、ドン・キホーテもBIGBOXも大学生に溢れているだろう。それでも彼らは彼らの中に物語を持って、色々な思いで「大学生」を背負っている。その事実がとてつもなく心強くて、その光の中に自分がいることを少しだけ誇らしく思った。授業の課題に振り回されたり、バイトのシフトを削られたり、それでも自分で作った金で自分が余らせた時間で自分の意志で自分のやりたいことをやれる。さあ帰ったらライブの練習をしなければ。まだまだ大学生活は長い。