辰巳駅

 

「沼にハマる」という言葉がある。

言葉通りずぶずぶと足を取られて抜け出せないことを指す言葉なのだけれど、この言葉を作った人間はこんなに苦しい思いを味わって作ったのだろうか。この手を伸ばせば伸ばすだけ掴めない骨ばった腕を。走れども走れども横顔すら覗き込めない距離感を。その癖に自分の求める時だけふわっと腰に回ってくる匂いを。

 

暇な土曜日。昨日の飲み会の疲れが来たのか体が怠い。二年上の先輩が結婚を理由に退社するので、それを見送るためのつまらない夜だった。結局社会人という生き物は何かと理由をくっつけて酒を飲みたいんだろう。酒の場では仕事中は話しかけられない若い女の社員に話しかけてもいいみたいな風潮は一体どこから来るのか。

ベッドから出られない私は、随分前に鳴ったスマートフォンをゆっくりと探る。午前11時半。大学生の頃と違ってどんなに怠くても午前中には起きるようになってしまった。歳だろうか。気にしていない風を装ってみるが、何もメッセージの届いていないまっさらなホーム画面に意図せず溜息をつく。比嘉くんは今日も仕事なんだろう。前回会ったのは先週の日曜日。今週はやめておこうか。迷う頭に比嘉くんのネクタイを緩めるシーンがよぎる。ああ考えるのはやめよう、何か食事を作らなければ。重い体に鞭打って、更に鉛のような重さの布団を剥す。

最初に比嘉くんと会ったのは友達に付き合って行った小さなライブハウスだった。まだメジャーデビューしていないバンドにも関わらず結構人が多くて、友達は最前列を狙うからと早々に別々になり、あまり来慣れていない私は始まる前に後ろの方でちびちびとジンジャエールを飲んでいた。

「あの、これ、落としてません?」

私のハンカチを持って前髪の重たそうな黒いTシャツを着た男の人が臆せずこちらを真っ直ぐに見ていた。背がかなり大きく肩回りもがっちりしている。180センチはあるだろうか。ハッと肩にかけていたカバンを見下ろすと、確かに開いていた。

「ごめんなさい、私のです。ありがとうございます」

慌てて手を伸ばすと男の人は「謝らなくていいのに」と言いながら小さく笑った。決して綺麗ではないライブハウスが、急に一瞬明るくなったような気がした。思えばもうあの時から既に遅かったのだろう。時計の針は確実に動き始めていた。

 

気晴らしに買い物でもしようといそいそと準備をして出てきたはいいものの、天気がどうも芳しくない。どこか屋内で済ませられるショッピングモールに行くのが最善だろう。グレーのノースリーブのブラウスに少しラフなジーンズ、赤いパンプス。「これぞ勝負服」と思われない程度の女の子らしさを入れておけば今日がどんな結末に落ち着いても悲しくない。さっきスマートフォンに打ち込んだ「今日も会いに行ってもいい?」の文字を頭の中で反芻し、分解しながら、同時に頭の中で時間を計算する。うん、ちょうどいい。

来た電車に乗り込むと土曜日らしく比較的混んでいて、そこここにカップルらしき二人組が笑っている。羨ましくないかと言われれば羨ましい。でも休みが合わないから仕方がないのだ、気楽な関係の方が後腐れなくていいんだと必死に自分を説得する。隣の二人組はどうやら付き合って長いようで、嫌みのないさりげない会話をしている。ショートヘアの女の子はパンツルックだし、男の方もキャップを被ってやけにカジュアルだ。

「動物園なんて久しぶりだな。私奥の爬虫類館見たいかも」

「相変わらず好きだよね、動物園行って爬虫類楽しみにすんなよ」

「いいじゃん別に。動物園の後どうする?なんか買い物とかある?」

「うーんそうだな特に今は思いつかないけど。後で近くにある店とか調べてみよっか」

きっとお互いに動物園の後はセックスをするだろうと知っていて聞いているのだと私には分かる。それでもカップルとして、「セックス」というイベント以外にも魅力的なイベントがあるのならそちらを選ぶ猶予を残している。これが例え言葉上だけの関係にしろ、「彼氏彼女」と「それ以外」の違いなんだろう。私たちに、少なくとも私には「それ以外のイベント」を選ぶ権利などない。それでもいい、それでもいいからと始めた関係のはずだった。いつか行為以外のものを選べる日が来るかもしれないからとヒールのないパンプスを選んでいても、結局いつも左程歩く必要もないまま今を迎える。

 

比嘉くんは不動産屋で働いていた。その業界のことは私には分からないが、平日が休日のようだった。「ようだった」という言い方をしているのは、明確に何曜日が休みなのか問うたことがないからだ。決まった曜日が休みだと知ってしまうと期待してしまう気がした。そして何より、休みの日なのに連絡が全くない事実に気が付いてしまう気がした。所謂名前のつかない関係性の私には比嘉くんの休日の予定を指定する権利なんてないはずだし、あまり深入りして嫌がられるのが怖かった。

 

大型ショッピングモールは案の定天気を案じてやってきた人間で溢れていて、それぞれの店舗の店員さんたちは外に呼び込みをする暇もなくあくせく働いている。ショッピングモールらしい内観はぐるぐると入り組んでいて、私のように予定もないただの徘徊者にも優しい。外に出るとすぐに海辺のあるここはデートスポットとしても有名で、大きな映画館の前には多くのカップルがいる。その中にいた男の子がそれとなく比嘉くんの重めの前髪を彷彿とさせ、また思い出してしまう。駄目だ。彼は仕事中。きっとまだ既読もついていない。

彼の昼休みはいつも遅かった。今日もきっと一時半過ぎだろう。朝ごはんも遅かったし既読が気になってなんだか食欲がなかったが、昼食らしいものを食べなければとすぐ目に入った「100本のスプーン」という店にふらっと入る。人気店だが一人だと案外入れる。返信がくるまではこの店を出まい、と唇を噛む。

 

勿論彼女にしてくれないのか、と軽い口調で聞いたことはあった。

あれは出会ってすぐの三度目くらいのデートの時だったか。その頃から今まで毎回比嘉くんの職場の近くで落ち合って小綺麗な居酒屋に入り、秋葉原近くの比嘉くんの家になだれ込むのが定番のコースで、その時は確かこのショッピングモールの中に入った居酒屋で飲んでいた。

「比嘉くん彼女作る気ないの?」

改まって告白をされた記憶はなかったので、鈍感なフリをして誘導してあげたつもりだった。だって体の関係は悪くなかったし、比嘉くんの方から次の予定を聞いてきていたし、はっきり言って恋人まで秒読みだと思っていたから。白い袖がパフスリーブになった気合の入ったブラウスを着ていた。仕事終わりの彼にお似合いの、仕事のできそうなOLに見えるように。

「うーん、今はいらないかなと思ってるんだよね」

少しくぐもった声で答える。飲みかけのスパークリングワインの炭酸が一気に抜けていったような気がした。

「…そうなんだ。彼女はいつからいないの?」

「一年くらい前かな。でも誤解しないで。葵生を都合よく扱ってる訳じゃなくて、今のタイミングが悪いだけで、もう少ししたらちゃんとしたいとは思ってるんだ」

「えー、じゃあ私別にわがまま言わないし、いい子にしてるからちょっと早めに彼女にしてくれたっていいじゃん」

と私が言葉を言い終わるか終わらないかの瞬間、比嘉くんの瞳がすっと熱を失くすのが見えた。これ以上は踏み込んでくるなっていう目だ。咄嗟にそう判断した私は、「とか言ってね。私も今は一人が気楽だなあ」と笑って誤魔化した。あの後どんな顔をして酒を煽いだんだったか。よく覚えていないけれど、あの日はやけに淡泊なセックスをしたことだけはよく覚えている。

 

あんな誠実な比嘉くんに限って私をセフレとしてしか見ていないなんて考えられなかったし、そこそこのビジュアルを持った私に限って普通の不動産屋に勤めるサラリーマンに弄ばれるなんてことは考えられない。確かに私達が繋がっているのはLINEだけだし、それ以外のSNSは知らない。でもだからなんだっていうのだ。あの時比嘉くんは確かにもう少ししたらちゃんとすると言った。それを信じずに何を信じるというんだ。

頼んだオムライスを頬張りながらスマホをじっと見つめる。14:20。バカバカしいと思う自分とそれでも比嘉くんが好きだと叫ぶ自分の綱引きは、結局いつも後者が勝つ。今回もここまでのこのこと出てきてしまっている以上、もう後には引けない。

 

「いいよ!」

と返信が来たのはもう15時を回った頃だった。飲み物を三杯も頼み直し、家族連れに埋もれた私は小さく悲鳴を上げた。彼の昼休みが終わってしまう前にもう一通でもやり取りをしたくて、慌てて

「私今他の用事で豊洲にいるから、何時でも平気だよ!」

と送る。こんなに突然会いたいと言って会えるのだから他に女なんている訳ない。私が一番恋人に近い人間だ。急に着ている服が軽くなったような気がして、映画でも見ようかと立ち上がる。隣に座っていた子供がぎょっとしたように私を見上げた。時間はまだ十分にある。

 

17:50。外はもう夕焼け模様になってきていた。夏が近いからか、ノースリーブでこの時間に外を歩いてもさほど寒くない。六月頭だというのにいい天気だった。比嘉くんは18:30が定時だから、ここから比嘉くんの会社の最寄りの辰巳駅まで歩いて向かえばちょうどいいだろうか。電車でも一駅だがまだ早すぎる。直接会社の前で待ちたいところだけど、そこまですれば私が比嘉くんと会うためだけにここまで来たことが分かってしまう。あくまでもついでに電車で寄れたテイでいることが重要だ。そこまで頭の中で考えてから、なんて計算高い女になってしまったんだと苦笑した。

 

辰巳駅の周辺は、豊洲駅と違って静かで地味だった。そこが割と好きだったし、落ち着いた。団地があったり公園があったり工場があったり。どこも静かにキラキラ輝くでもなく自分の使命を全うしている。勿論比嘉くんと出会うまでは一度も行ったことのなかった駅だ。ちょうど歩いて30分くらい。途中に川を渡ったり、結構楽しい。

 

だんだんと空も暗くなり、周りも豊洲の明るい街並みから少しずつ静かになってきた辺りで、スマホが短く震えた。そういえば結局昼休み、あの後は返信はおろか、既読もつかなかった。慌ててポケットから熱を帯びた機械をつまみ出し、ボタンを押す。

「ごめん、今日無理になっちゃった」

膝から崩れ落ちそうになるのを必死にこらえながら、思考を巡らせる。それでも私は明日休みだし、家に泊まることもできる。遅くなるだけならいくらでも待てる。

「残業やばそうなの?私全然待てるから大丈夫だよ~」

軽くため息をついてさっきより重くなったスマートフォンをポケットに滑り込ませる。遠くの方に辰巳駅の端くれが見えてくる。左手にある団地の窓から、生姜焼きのような良い匂いがする。左側には江東区辰巳児童館。どちらも味気のない白い建物だけれど、やっぱりなんだか落ち着く。人々の生活感が見えるからだろうか。

駅前には広めのロータリーと、その奥には公園があるが、どちらも全然人がいない。観光地でもない上に子供が帰り始めているこの時間は、ちょうど狭間の時間帯なのかもしれない。

 

公園のベンチに腰をおろしてスマートフォンの画面をつけると、メッセージが来ている。

「残業とかじゃなくて他に予定が入っちゃった」

「リスケさせて!ごめん!」

二つに分けたメッセージから、慌てて書いた指の音が聞こえる。

 

まあそんな日もあるよね、帰ろう、と思う心とうらはらに、なぜか足がすっくと立上り、駅とは反対の方に向く。行ってはいけない。知ってはいけない。私は適度な距離感を保ってここまで上手く比嘉くんとやってきたはず。例え他に女がいたとしても、私のこの大人な距離感のおかげでここまで一番手でやってきたはず。このままいけば絶対に彼女にしてもらえる。そう言い聞かせても足が止まらない。

バグを起こしている自分の頭の中に、「葵生は大切にしたいんだ」と月明りのベッドの中ではにかんだ柔らかそうな頬や、ふわふわと寝息と共に浮く睫毛、私のことをガラスのように優しく触る長い指、お腹が空くと決まって好きなお笑い芸人の真似をして買いに行こうと誘ってくるお茶目な顔が浮かぶ。もうあの沼にハマって丸二年くらいになるのか。長かったようで短かった。二年も一番近い場所で笑っていたはずなのにどうして彼女にはしてくれないの。比嘉くんは私を独り占めしなくても平気でいられるの。どうして私ばかりが休みの日にこうして連絡を待っているの。どうして他のSNSは頑なに教えようとしないの。どうして。どうして。

 

ハッと気が付くと、もう比嘉くんの職場の前に着いていた。ちょうど男女の組が不動産屋から出て細い路地に入ったところで手を繋ぎ、顔を寄せ合ってスマートフォンを覗いているのが見える。歩くスピードはそのままに、私はその二人めがけて進む。自分がもうどんな感情なのか、どうしたくて動いているのかも分からなかった。ただ、自分が深く傷ついた音がして、それが許せなかった。

ふと男の方が顔を上げ、近づいてくる私に気づいてぎょっとした顔をする。

「葵生、ちゃん?」

隣の女に考慮してか、呼んだこともないちゃん付けで呼んでくる。重い前髪がこんな状況にも関わらず穏やかに風に揺られている。

「どなた?学生時代のお友達?」

にっこりと微笑んだ隣の女は、ぱりっとした女性もののノーカラーのスーツを着ていて、明らかに仕事の同僚といった感じだった。私がどんな形相をしているのか分からないけれど、只事じゃない空気にも関わらずここまで堂々としているのは、きっと正真正銘の彼女なのだろう。

どうも、と会釈をしてから、彼女を顎で示して

「彼女?」

とだけ聞いた。自分の声がひどく落ち着いていることに少なからず驚く。

「…そう」

私がどう出るのかが分からないのだろう、比嘉くんは次の言葉に迷っているようだった。

豊洲で用事って言ってたっけ?彼氏?」

何を白々しく彼氏?などと聞いてくるのだろう。なんだか目の前の男が私の知らない人間のような気がしてきて、不思議な感覚に陥る。

「そうだよ。だから比嘉くんも含めて何人かセフレがいたけど、今みんな縁切って回ってるの。今日はお別れがしたくて来た」

隣の彼女がちらっと比嘉くんの顔をみて、繋いでいた手を離す。比嘉くんも、私のせいで全部失えばいい。失うことの重みを分かればいい。

「今までありがとう。セックス、私のおかげで随分上手くなったから彼女に還元してあげてね」

最後のさよなら、は自分にしてはカッコよく言えたと思う。比嘉くんがどんな顔をしていたのかは見えなかった。相変わらず重い前髪が大事な心情を隠してくれたのだろう。そうやって一生誰とも分かり合えずにいればいいんだ。私は先に進む。

 

帰り道、涙は出なかった。心のどこかでこれでよかったんだと安心する私がいる。まだまともな判断のつく私が残っていてくれてよかった。人を好きになることに理由なんてなくて、きっかけなんてなくて、でも好きになる前に知らなければいけないことは多分とても多い。私は傷つくことが怖くて無意識にそれを避けていたのだろう。この世には今この時にも綱渡りのような恋愛をする人間は一定数いる。多分比嘉くんの隣にいた彼女も、同じことを繰り返される恐怖と戦った後、それでも自分だけは特別なのではないかという淡い期待を抱いて関係を切れないだろう。彼女だって被害者だ。

あの時小さなライブハウスで私と比嘉くんの間に吹いた風は本物だったと信じたかった。ただそれだけのことだったのに、比嘉くんには風なんて始めから吹いていなかったのだ。私一人が比嘉くんから放たれる光に、風に、さえずりに踊らされて、何も見えなくなっていたんだろう。

 

戻ってきた辰巳駅はもうオレンジ色ではなくなっていて、暗くぼんやりとそこに立って私を待っていた。もう二度とこの駅に用はない。振り返ると、さっき生姜焼きの匂いが漂っていた辺りからはお風呂の匂いがしてきていた。この世界は私が男に弄ばれようが、見切りをつけようが、それでも移り変わっている。ここにとどまっている訳にはいかない。

さあ戦いはこれからだ。

 

高田馬場駅


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彼女を知らない人はいなかったと思う。大して異性に興味のない俺ですら知ってたんだから、恐らく。彼女は入学当時からちょっとした有名人で、「春香さん」という名前らしかった。このマンモス大学の中、学部も違った俺が彼女の名前を知っているだけで彼女がどれほど目を引いていたか分かってもらえるだろう。ただ不思議と、苗字は耳にしたことはなかった。「春香さん」という名前だけ、この広いキャンパスに静かに轟いていた。

 

電車でちょうど一時間くらい。自宅から大学の門をくぐるまでのその時間が、受験期の過去の自分の苦しみと向き合い続ける時間だった。だってこんな汚い駅に来るつもりはなかったのだ。もうすぐここに通い続けて一年半になるけれど一向に慣れないしまだ認められない自分がいる。朝は生きているのか死んでいるのか分からない人間が寝そべり、夜になると恐らくそのような屍になる寸前の大学生がそこらで嘔吐しているこのロータリーは、大学生という青臭さの塊のような場所だった。周囲の友人や家族は楽しいサークルに入って良い会社に入ればこの大学に入ってよかったと思うさと呑気なことを言い続けたが、一方俺は結局この十字架を背負い続けながら重い足を動かし続けた。ここまでの過程がどんなに素晴らしくても、高校で遊び歩いて先生に良い顔していただけで推薦枠を得た奴らと同じ文字列が俺の肩には並んでいる。

ちょうど通りすがった大きなカラオケ屋の扉が開き、ぐわんぐわんと音がするくらいの冷房の風を頬に感じながらふと自分の肩を見る。当然そこには文字が乗っているはずもなく、ギターケースのベルトが黒々と食い込んでいた。ライブまではあと一カ月を切っている。覚えなければ。漸く自分を赤本に埋もれた景色から引っ張り出して振り切るように足早に歩く。

 

「あっ遠藤さーん」

俺の所属している音楽サークルは比較的緩く春だけではなくて秋にも勧誘活動をすることもあり、ぽろぽろとキリの悪いタイミングでも新しい顔が増えていく。新入生の顔を覚える気のない俺は、それでも幹部になってしまったので大学内を歩いていると時々見知らぬ顔に声をかけられる。まだ最年長学年ではないから幹部に入っている二年は俺ともう一人会計の女子だけだが、なぜこんな大きなサークルでやる気のない俺が選ばれたのか甚だ疑問しかない。どこからか呼ばれたような気がして周りを見渡すが、今回もやはり見知った顔はいない。

「こっちこっち」

真後ろから肩を叩かれ、振り向くとどこかで見たことのあるようなないような背の低いショートカットの女の子が嬉しそうに立っていた。ああ、とぼんやりした返事を返すと、自分が誰だか理解されていないなど微塵にも考えていないような笑顔のままハキハキと俺に言葉を投げ返す。

「今日遠藤さんのバンド練習日なんですね」

「そう。このクソ暑いのに馬場からこいつしょってきたんだよ。まじきつい」

カラッとした笑い声が汗だくの俺の胸辺りに降りかかる。女という生き物は暑さを知らないのだろうか。

「私の友達が秋にサークル入りたいって言ってるんですけど、ちょうど今日暇って言ってたし練習ちょっと一緒に見に行ってもいいですか?」

 バンドメンバーの気合の入った顔が浮かんで、まあいいけど、と答える。こういう俺の煮え切らないやる気のなさは所詮最初からこの大学程度がお似合いだったんだと頭の中の誰かにちくりと言われぐうの音も出ない。

 

今日最後のコマの授業が終わり練習室のある学生棟に向かう途中、スマホを開いたら「マキ」という名前のアイコンからメッセージが届いていた。さっきのキラキラした笑い声を思い出す。練習室が何号室かどうかを聞く旨の連絡で、返信を打ったついでにバンドメンバーとのグループに見学者がいることを伝えるメッセージも送る。現代はリアルタイムで他人とやり取りができる分、必要事項を確認し合うタイミングが異様に遅くなっている気がする。さっきやり取りした時に何号室かを聞けばよかった話だし、俺だってさっき廊下でバンドメンバーとすれ違った時に何も言わなかった。ある日突然全世界のSNSが消えてしまったら人間たちは本当に大切な人たちとどうやって無事を確かめ合うのだろうか。ひと昔前なら出てきた手段が、今ではもう通用しなくなっているだろう。そんなどうでもいいことを考えながら、受付のおばさんから練習室の鍵を受け取る。

学生棟は音を出したり踊ったり所謂サークル活動をするための部屋が蜂の巣のように集まっている。俺らが練習する部屋は大体が地下。だったら蜂の巣というより蟻の巣と言った方が似つかわしいかもしれないな。無機質な階段を下りながら小さくため息をつく。確かにサークルは楽しいし、音楽をしている間はコンプレックスも消える。それでもカビのように頭の隅にこびりついたプライドが俺を許すことはなく、どうしても自分だけが地面から数ミリ浮いているような感覚になる。いや、俺が地面に沈んでいるのか。

 

バンドメンバーが明らかに目尻を下げている姿を横目で見ながら、冷めた脳味噌でギターを弾いて恋愛の歌を歌う。さっきのマキという女の子は俺たちを「サークルの中で一番アツいバンドだよ」と紹介してきて、流石の俺でも手に汗をかいた。確かに俺は置いておいてもサークルの中では上手い奴らだと思うし、音楽にこだわりのある面々だからそこそこ真面目に練習をしている。でも初見の、しかもたった一つ年下の女の子にそんな先入観で見られると思うと期待を裏切れないという男のプライドが嫌でも顔を出す。お尻の下にあるパイプ椅子がどろっと溶けていく感覚を感じながら、芯を固形のまま保とうと必死に耐えた。

「カッコよかったです、ありがとうございました」

マキちゃんが連れて来たロングヘアの女の子が、低い声でしっかりとお辞儀をする。華やかで大きい胸をさらに強調するような服を着て、言葉を選ばずに言うのなら所謂男の目を引く要素をこれでもかと詰めているマキちゃんと、それに不釣り合いなほど地味で静かな感じの子だった。よくよく見ると控えめな目は黒目がちで鼻筋も通り綺麗な顔をしている。それでも本人の性格の問題なのだろう、すっと空気に溶け込んでいるような印象を受ける。そのままマキちゃんと背中を向けようとするので慌てて「名前フルネームでもらっていい?あとラインも」と声をかけた。ひやっとした黒目がこちらを振り向く。その黒目はマキちゃんとは違って、こちらに愛想良く笑いかけることをしない。最初にマキちゃんはなんと紹介していただろうか、下の名前すら思い出せない。

「シンドウ、シノと申します。マキ、ラインを後で遠藤さんに送ってもらっていい?」

真っ黒な髪をさらっとなびかせてしんとした空気だけを置いたまま、気づくとドアは閉まっていた。

 

その日の夜にマキちゃんから来た連絡先には「新藤志乃」と書かれており、アイコンはあの黒々としたロングヘアの後ろ姿だった。なぜ女の子はみんな後ろ姿や横顔、顔があまりはっきり見えない写真をアイコンに選ぶのか、その謎は学生のうちには解けそうにない。なんのためのアイコンだと言うのか。

味気のない自分の部屋でこうして一人で暇を持て余していると、またこんな場所にいるはずではなかったと無数の俺が大合唱している声が地面を揺らしてくる。学歴コンプレックス。この世には数多くのコンプレックスがあり、つい先日見たテレビではローランドが「コンプレックスがあるほどそれをエネルギーにして成功する奴が多い」と言っていた。確かにそうかもしれない。それでもそれを上手く燃料にすることができないままぷすぷすとガス漏れを起こしている人間も腐るほどいる。俺だって仮面浪人という選択肢もあったし、やり様はいくらでもあった。それでもこの重い両足が動かない理由をいくつもいくつも並びたててはこのベッドに戻ってきた。俺のせいだ。他の誰のせいでもない。そんなことはとうに分かっている。

 

新藤さんは結局あの後すんなりとサークルに入部した。マキちゃんはみんなから「マキちゃん」と呼ばれている一方で、新藤さんはずっと「新藤さん」だった。確かに入部して一カ月も経つとだいぶ慣れてきて最初までの距離感は感じなくなったものの、どうしてもずっと一枚の壁越しに話しているオーラは拭えなかった。本人もそれを望んでいるような雰囲気があったし、みんな深くは関わらなかった。俺も勿論。でもなんとなく顔や名前の覚えられない新入生の中で、なぜだろう新藤さんだけはいつも俺の彩度の低い眼球には少しだけ鮮やかに見えていた。

 

それは俺の代の奴と俺、新藤さん、新藤さんのバンドメンバーの帰りが偶然一緒になった時だった。俺は大体他人の言葉に相槌を打つ役なので、歩きながら自然とよく話す二人の一列目、俺と新藤さんの二人で二列目という並びになった。一対一で新藤さんと話すのはこれが初めてだった。

「遠藤さん、馬場ですか?西早稲田?」

「俺は馬場だよ。新藤さんは?」

私も馬場です、と答えた横顔をちらっと見ると、伏し目がちの睫毛が思いの外ばさっと長くて少し鼓動が乱れる。

キャンパスから帰ると先に西早稲田の駅が来て、ちょうど西早稲田までの距離の二倍くらいの位置に高田馬場駅がある。副都心線が通るようになって埼玉の奴や神奈川の奴が西早稲田を使うと便利らしく人がわさっといなくなるので、まとまって帰っていてもそこで一度お開きのような状態になるのだ。

西早稲田までの真っ直ぐな道は、後半の高田馬場へ向かう道と比べ静かでとても落ち着いている。左側に学習院女子が見えてくる。ここから更にしばらく歩いて、大きな交差点が出てきたら後半のうるさい高田馬場ワールドの始まりだ。

「新藤さんって休みの日とか何してんの?」

ふと脳を通らないまま出た言葉に、慌てて あ、深い意味はなくて と付け足す自分が情けない。

「ほら、新藤さんってちょっと謎めいたところがあるというか。アフターもいつも早めに帰るし。実家なの?」

「あー、」

新藤さんの目が少し泳ぐ。泳ぐ?そんなまずい質問したか俺。

「一人暮らしですよ。アフター早く帰ることにはあんまり深い意味はないです」

「…彼氏と同棲してる、とか?」

と聞こうと「かれ」まで声に出したところだった。

「あれ、志乃?」

後ろの方からよく通る声が飛んできた。ふと振り返ると、あの「春香さん」がこちらに向かって歩いてきていた。身近に初めて見る姿に少したじろぐ。前を歩いていた二人も足を止めてこちらを見ている気配を感じる。

「春香さん」はきゅっと結びあげたポニーテールの毛先を上品な程度に巻いていて、こちらに一歩踏み出す度に細い首の向こうに揺れている。運動系のサークルに所属しているのか上はスポーツジャケットのようなものを羽織り細身のジーンズを合わせていて、どんなに彼女を持ち上げても着飾っているという言葉とは程遠い場所にいるにも関わらず一際この世界から祝福されていた。時が止まったようだった。

「春香さん」が新藤さんの前までたどり着いて初めて、世界の時間がゆっくり動き出す。新藤さんの隣で石のようになった俺をちらりと一瞥して、会話の邪魔してごめんなさいねというようにぺこっと美しいお辞儀をする。

「今帰り?私この後アフター寄って帰るから、ごめんけど夜ご飯食べちゃっていいからね」

確かに「春香さん」の後ろから同じような格好をした男女がダラダラと歩いてくるのが見える。

「…分かった」

新藤さんは素っ気なく一言小さく呟いて、俺に目もくれずに 私やっぱり西早稲田から帰るので。お疲れ様です。と誰にともなく言うや否やいつの間にかすぐ目の前にあった地下鉄のエスカレーターに吸い込まれていった。

 

その後新藤さんはぱったりサークルに来なくなった。

 

後々サークルの中では噂好きな連中や「春香さん」と同じ学部の奴らが「春香さん」と新藤さんはどうやら姉妹らしいという情報を仕入れてきていた。なぜ今まで誰もその事実に気づかなかったのかは謎だが、確かに顔はあまりにも似ていない。それに、あの感じだと新藤さんも率先してひた隠していたのだろう。理由は誰の目から見ても明白だった。それにここまでの情報が出回ってしまった以上、この空気感のサークルに来たくないと感じるのは至極当然のことのようにも思う。「かわいそう」とか「傷物」だとは全く思わないし、新藤さんの魅力を知っている俺からすればそんなの気にすんな、新藤さんはそのままで十分素敵だと一言言ってあげたかった。それで救われるのかどうかは定かではないが。

 

二年目も飛ぶように過ぎ、三年目を目前に待つ春が来ていた。新歓のライブを控えた今、新藤さんに連絡するなら今しかないと思い昨日の夜に入れたメッセージの左下には既読の二文字が控えめにぽちっとついただけだった。

『来週新歓ライブがあるけど、来ない?新藤さんが入部した時にやった曲久しぶりに演奏するよ』

ここまで連絡ができずにいたのは、また俺の意気地なさが出てしまった。きっかけがないと動かない手。大きなコンプレックスを抱えている癖に決めきれない足。結局それは受験だけではなく、こんな風に日常生活でも選択肢を狭め続けているのだろう。こいつらのせいで俺に最後の最後に残される道は一つくらいしか残っていないかもしれない。それも、きっと無難中の無難の道か誰も登れないような先の見えない山か、そんな道なんだろう。

 

「えんでぃー昼飯どうする?昼後授業入ってんの?」

「いや今日は空きコマ。食い行こうぜ」

俺のことをえんでぃーなんていうふざけたあだ名で呼んでいるのはバンドメンバーだけだ。別にあだ名なんてどうでもいいけど。

わらわらと空気が動き始めた講義室はマンモス大学らしい綺麗な広い場所で、重さを失った椅子たちは文句も言わずに勝手に閉じていく。いつもこの閉じていく椅子を見ているとちゃんと親孝行しないとなという気持ちになってくる。子供を持つということは非常に重荷なことなんだろうが、少し前に実家に久しぶりに帰った時のどこからともないもぬけの殻感を今でもありありと思い出す。怒られてばかりだった俺から見たら、子供が出ていった後は両親二人楽しくせいせい暮らすのだろうと思っていたのに、あんなにしんと静まり返った家を見ているともっと帰ってこなければというよく分からない使命感に駆られる。

適当にリュックに教科書を突っ込んでいるバンドメンバーの姿にふと問いかける。

「なあ新藤さんってさ、かわいそうなのかな」

手を止めて は?お前何言ってんの?と聞き返される。

「どう考えてもかわいそうじゃね?姉貴があんなかわいかったら絶対比べられるじゃん。なんで同じ大学になんて入ったんだろうな」

別にブスな訳じゃないのに比較の問題で地味に見えちゃうのってどうしようもないもんな、と勝手に納得している彼を見ながら、新藤さんと「春香さん」を頭の中に直立させた。うん、俺はやっぱりそれでも新藤さんがいいけどな。

 「それにしても春香さん本当かわいいよなあ、読者モデルしてるらしいぜ。なんかの間違いで付き合えねえかなあ」

お前はモデルの彼女がいる男っていう肩書が欲しいだけだろと笑いながら立ち上がったら、俺の尻の下にいた椅子がきしっと小さな音を立てながらぱたんと閉じた。

 

この広いキャンパスで特定の誰かを一方的に意識的に見つけるのはかなり至難の業だ。その日並木道の下で花粉症で出るくしゃみを必死にこらえながら歩いていたら、遠くの方に新藤さんの黒髪がちらと見えた。今しかないと思った。

「新藤さん」

見慣れた冷めた黒目は、驚いたように大きく見開いた後に俺を捉えて失望の光を宿す。でも逃げることはせずに、大人な彼女らしく

「あ、遠藤さんお久しぶりです。最近サークルに行けなくてごめんなさい」

とさらっと会釈をした。こうやって距離を保ち続けることは、彼女自身を固く固く守ってきたのだろう。

「こないだメッセージ送ったんだけど見た?」

「ああごめんなさい忙しくて、返信してませんでしたよね」

しつこくてうざい先輩って思われてるんだろうな、と思ったけど口が止まらない。

「今度昼飯でも行かない?昼後がお互い空きコマの時とか」

黒目の中に巣くっていた失望の光が、また驚きの色へぱっと変わる。新藤さんは白いトレーナーに白いセンタープレスのズボンを履いていて、黒い髪と黒い目が良く映えていた。上品だけど、決して目立たない服、色味、デザイン。何かの間違いで姉より目立たないように。慎重に、丁寧に。

「姉と繋いで欲しいのなら、そういうのは断ってって言われてるのでごめんなさい」

合わせていた目をさりげなくそらしながら新藤さんの口から出た想定もしていなかった返事に今度は俺がたじろぐ。

「そうじゃない。新藤さんと行きたいんだけど」

思っていたよりも感情が入り混じってしまった俺の声色に気圧されたのか、新藤さんは観念したように はい、と答えた。

  

 少し肌寒くて、もう春の風物詩のライブが迫っているというのに小さく身震いをした。今日の昼に、新藤さんと大隈講堂前で落ち合うことになっている。1限から入っている曜日だったので朝バタバタと支度をして、ついおろしたてのシャツを着てきてしまった。軽率だった。これでは気合が入っているのが見え見えである。休みの日を一日もらうには、サークルの男女の先輩と後輩というのはなかなか危うい関係であるような気がした。奢り奢られで権力の差が出てしまってもいけないし、先輩後輩でその後の活動のことを思って断れない関係が生まれてしまっても怖い。いや、既に新藤さんは断れない立ち位置にいるだろうか。

悶々と考えながら午前中の授業が終わり、早々にいそいそと大隈講堂に向かうともう新藤さんは待っていた。黒無地の薄手のセーターにカーキ色のコーデュロイパンツ。この前と違って大振りのイヤリングをしているのが見える。

強張りながら近づくと あっ遠藤さんこっち!と案外明るい声で呼ばれる。

「ごめん、待った?早めに終わったと思ったんだけど」

「いえ、私今日午前中のコマ偶然休講で暇だったんです」

念のため言っておくが童貞ではない。そこそこには経験もあるし、まあまあにはモテたこともあった。それでもなんだか新藤さんの前ではいつも余裕がなくなってしまう。落ち着いているからか、なんだかペースを見失う。

門から出て大体5分かからないくらいの静かな裏通りに、GOODMORNINGCAFEというなんとも女子ウケしそうなお洒落なカフェがある。多分チェーン店だと思う。お洒落ながらもハンバーガーがあったりして、フランクに入れるので個人的には割と気に入っている。そこでもいい?と聞くと、行ったことないので嬉しいですという模範解答のような返事が返ってきた。

 

「私、勝手に妬んでるだけなんですよね」

お手拭きで丁寧に手を拭きながら新藤さんが唐突に言う。

「あれでもっと性格悪くて救いようがなかったらまだここまで気にしてないんだと思います」

なんと言えばいいのか分からなかったけど、会話が終わってしまわないように無難な相槌を打っていく。俺がこの静かな空気を壊すことで、新藤さんがハッと気が付いて全てが水の泡になってしまいそうで怖かった。そのくらいの儚さを醸し出していた。

けれど突然新藤さんがちょっといたずらっぽい笑顔になってこちらを見上げる。

「皆さんここまでは知らないと思うんですけど、実は姉と言いながら春香と私は双子なんですよ」

「え、そうなの?」

似てないねという言葉が危うく喉まで出かかって必死に引き留める。

「そうなんです、似てないでしょう?私のことを誘ってくれた遠藤さんだけに特別エピソードですよ。内緒にしてくださいね」

と、いうことはと少し店内に目線を泳がせながら考える。新藤さんは俺と同い年ということか。どうりで後輩感がない訳である。大学生は大人と子供の間の微妙な年齢だけど、個人的には一つの年齢が最も大きく感じる年頃であるような気がしている。浪人生も留年生もいるから年齢も学年もごちゃ混ぜながら、案外誰が上、誰が下というのが見えやすい。

カフェにはちらほら早稲田生がいるだけで割と静かで、今流行りの配管がむき出しの天井が白く眩しかった。

新藤さんが自らここまで話をしてくれたのは、俺が何を考えているのか分かっていたからなのだろう。あえてこんなに明るく話してくれているのはどこまでも大人で、どこまでも控えめな彼女の性格を表しているようで心がピリッとする。

黙ったままの俺をしばらく見つめ、

「コンプレックスって」

と先ほどとは違う声色で新藤さんが呟く。

「一度生まれてしまったら消えないものだと思うんです。周りの人がどんなに気にしていなくても、自分にはものすごく巨大なものに見える。自意識過剰だと分かっていても気にしちゃうんですよね。気にしないよとか大丈夫だよとか曖昧な言葉をどんどん信用できなくなっていくけど、周りの人はそれほど大きな意味でかけている言葉じゃない。それでも私、遠藤さんだけはいつも私だけと話してくれてるような気がしてて、ずっと救われてました。だから余計春香と私が遠藤さんの目の前に並ぶことになっちゃった時に打ちのめされちゃった」

ちょうど新藤さんの言葉が終わったタイミングで、店員の女の子がハンバーガーを運んできた。俺は顔を上げられずに、ずっと店員さんの黒い店のロゴの書いてあるエプロンを見つめていた。恥ずかしかった。

 

俺に言われているようだった。

同じコンプレックスでも、俺のものはなんて醜くて小さいんだろう。

新藤さんは早稲田にどうしても取りたい授業があったらしく、春香さんが先に入学したことを知りながらも浪人までして早稲田を選んだらしい。確かにまだ春香と比べられる世界線に立ち続けなきゃいけないのかって何回も迷ったけどね、と力なく笑った。一方俺はというと、他の選択肢を両腕に抱えきれないほど持ちながらも、浪人する勇気も勢いも持ち合わせないままにどんぶらこと流されて入学し、自らの足で選んでそちらへ進んだにも関わらず必死に目に見えないもののせいにして喚き散らしていた。一体何を見てきたのだろう。何を汚いと罵ったのだろう。いや、もはや自分の足で選んだとも言い難い。これではただの流木だ。足も意志も持たず、たった一つ持ち合わせた脳味噌で文句ばかり垂れていたのだ。そんな人間が一丁前に励ましてやりたいなど、どうしたら新藤さんに顔向けできようか。俺は何と戦ってきたのだろう。赤本の前で枯れるほど泣いた過去の俺に何を返してやろうとしていたのだろう。そもそも何かを返してやろうなどと思っていただろうか。今の自分の体裁を整えることだけにこの二年間費やしてきたのではないか。

 

最後のコマがあるからと言い、まだ最後のコマまでは時間があったけれどぴったり3時に門に帰ってきて、新藤さんは俺に手を振った。同い年だからと言った俺の言葉に応じて語尾が丸くなった新藤さんはなんだか新鮮で、ちょっと照れ臭かった。もう今日の授業がない俺は、しばらく新藤さんが並木道を凛と歩く後ろ姿を見送ってから、高田馬場駅へと足を踏み出す。

いつも汚い青臭いと眉をしかめながら通っていたあのロータリーは、今日どんな風に見えるだろうか。きっとあのカラオケ屋はいつも通りうるさくて、ドン・キホーテもBIGBOXも大学生に溢れているだろう。それでも彼らは彼らの中に物語を持って、色々な思いで「大学生」を背負っている。その事実がとてつもなく心強くて、その光の中に自分がいることを少しだけ誇らしく思った。授業の課題に振り回されたり、バイトのシフトを削られたり、それでも自分で作った金で自分が余らせた時間で自分の意志で自分のやりたいことをやれる。さあ帰ったらライブの練習をしなければ。まだまだ大学生活は長い。

馬堀海岸駅

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私じゃ駄目なことくらい、随分前から分かっていた。
分かっていながらちょっかいを出したのは私で、長い線を一本しっかり引いておきながらそこに乗ってきたのは舟木さんの方だった。だからといって舟木さんは責められないし、だからといって後ろ髪を引かれずに手を引くことなどできるはずがなかった。

「いつもラブホテルのシャンプーなんてして帰って大丈夫なんですか」
ラブホテルらしいちかちかと安っぽく色の変わるライトが浴槽の水面を照らすのを横目で見ながら、梨花は不愛想に尋ねる。これで三度目の舟木さんと二人でのラブホテルだった。舟木さんはいつも朝夕関係なく事後にはしっかりと頭と体を洗う。私が奥さんだったらこんなに甘い匂いが旦那の頭から香ったら発狂するだろう。幾度となく尋ねかけては飲み込んだ問いを今日はぶつけてみようと、しゃかしゃか軽い音を立てて頭をなでる背中を見つめる。
「大丈夫も何も、洗わないとどうしても気になっちゃうんだよね俺」
答えになってないじゃん。きっと家でもこんな風にのらりくらりとそこここに漂う疑惑をかわしているんだろう。呆れる。
江の島近く大通り沿いのラブホテル。藤沢に職場のある私達はよく仕事終わりに舟木さんの車でこの辺りをドライブしたり、休み前には今回のようにホテルになだれ込んで泊まることもあった。奥さんになんと説明しているのかは知らない。知りたくもない。舟木さんのプライベートについて尋ねたことは今までになかった。だって何か壊れるような気がするから。舟木さんに関して失うものなど、舟木さんすら手に入れていない私には何もないはずなのに。

外は明るくても、ラブホテルという場所は窓が閉め切られているからかずっと夜のような錯覚に陥る。それがなんだか自分の罪を隠しているようで、ラブホテルの自動ドアを潜る度ほっと安心する。無論どこにいても許されている訳などないのだけれど。

「今日はどこ行きます?」
私の問いに頭を洗い終えた舟木さんが一重の流れるような瞳をこちらに向ける。整った顔の裏側にこんな汚い一面があることを、職場の誰も、そして奥さんも知らない。私だけが共犯者のように寄り添って秘密を守っていると思うと、心が震えた。
「ちょっと行きたいところあるから付き合って。まだ多分酒残ってるから車はコインパに置いてくわ」
私は聞いておきながら特に返事もせず、黙って濡れて重くなった長い髪をもう一度ゆっくり搾って、さっきから目障りに瞬く浴槽に右足を突っ込んだ。


「え、何ここ?」
すげー地味な駅。聞いたこともないし読み方すら分からない。舟木さんはいつもの低い落ち着いた声で、マホリカイガンだよ、と言った。気がする。馬掘海岸。変な名前。
デコルテのしっかり出たワンピースを着た私と、Tシャツジーンズの舟木さんは、明らかにこの駅にそぐわなかった。どんな格好をしても私と舟木さんはこんな家庭的な雰囲気の駅にはそぐわないのかもしれない。
とても小さな駅で、改札から出たらすぐに細い通りに出た。夏は既に尻尾を見せ始めているというのに、今日はやたらと日が照っている。駅を出て振り返ると、青い空に赤い煉瓦がよく映えていた。こんな駅に一体なんの用があると言うのだろうか。舟木さんは何も言わずに長い足ですたすたと左方向に歩いていく。暑さと先の見えなさにうんざりした梨花はしばし立ち尽くしたが、渋々と後について歩き出した。

私と舟木さんが関係を持ったのはほんの偶然からだった。その時まだただの上司だった舟木さんは、まあ確かに私の中ではイケメンの部類だったし、何かの用事で話をすれば悪い気はしなかった。でもだからといって勿論狙おうという気はさらさらなかったし、何よりその指に誰かとの約束がちらついていることも知っていた。それにそんなリスクを背負う程男に困ってはいなかった。
ある日舟木さんが誰にもなんの連絡もなしに突然仕事を休んだ。社用のスマートフォンに何度電話をかけても繋がらず、上司はきっと何かしらの理由はあると思うが誰か家を見に行ってやれと言って、そこに白羽の矢が立ったのがたまたま居合わせた中で最も年下の私だったのだ。舟木さんは家によく会社の人達を招いてホームパーティをしていたし、藤沢から左程遠い場所ではなかったのもあり、家まで様子を見に行くということに誰も抵抗がなかったのだろう。
恐る恐る家の呼び鈴を押すと、しばらく静まり返った後不精髭がうっすらと生えた舟木さんがよろよろと出てきた。家の中には他には誰もいないようだった。後から聞けば奥さんと子供はちょうど彼女の実家に帰省していたらしい。舟木さんは40度近い熱があり、朦朧としていたため会社に連絡してから私が看病した。今思えばあの時から私と舟木さんの社会的理性は飛んでいた。多分二人ともきっかけを待っていただけだった。

駅を出て高速の下をくぐり、更に左折して大きな通りに出る。今のところ何もありそうにない。暑くて何も頭に入ってこない私はただひたすら舟木さんの後ろ姿を見ながらなぜ私と関係を持ったのかを考えていた。
いつか終わらせなければいけないことは分かっている。自分がいつか法に触れるようなことをするなんて考えたこともなかったし、そこまでして手に入れたい男なんていなかった。何が私を突き動かしたのか今でも分からなかった。きっかけがあったとはいえ、私と寝たということは他にも同じような相手がいるであろうことは否定できない。私はこんなリスクさえ背負っておきながら「たった一人」ではないということだ。この人と時間を過ごすことになんのメリットがある?この人のために全てを失うことになんの意味がある?どうしてやめられない?
ぐるぐると頭を働かせていたら眩暈がして、ふと立ち止まったら舟木さんが目の前に止まってこちらを見ていた。

随分と坂を上がってきた気がする。さすがの私でもかなり息が上がっていた。
梨花ちゃんさ」
舟木さんも息が上がっている。この人は息が上がっていても落ち着いて見えるのだから罪だ。はい、と返事をしたつもりが声が掠れて出ない。
「もう終わりにしようと思うんだ」
「え、」
「というか、俺転職して秋田の方に帰るんだ」
そう話す舟木さんの向こう側に青い海と船がたくさん並んでいるのが見えた。横須賀の海だろう。
この人は何を言っているのか。頭の中で舟木さんの綺麗な口元から発せられた言葉がカタカナのまま回っている。テンショクシテアキタノホウニカエルンダ。アキタ?アキタニカエル?
「...アキタニカエルノ?」
私の口からもカタカナでしか文字が出てこない。青い空気の中にふわふわと浮いているのが見える。舟木さんの耳に届いたのだろうか。漢字と平仮名にちゃんと直っただろうか。
「嫁の実家」

この景色を最後に見せてやりたかったと静かに話す横顔はやっぱり綺麗で、どんなに汚い内側を見せられても打ち消すことはできないのだと思い知る。舟木さんが小さな頃によく来ていた場所らしい。昔ここはただの空き地だったようで、今もその名残は残りながらも整地のされていない駐車場へと変わっていた。舟木さんはここに秘密基地を持っていたそうで、ここから見える景色は昔から左程変わっていないらしい。
「変わるものも変わらないものもあるけど、この景色を見る度に自分はどっちなんだろうってずっと考えてた」
私を抱いた手が、私に触れた唇が、私を撫でた息が、ぽろぽろと消えていく。
梨花ちゃんといる時間はすごく心地よくて、昔逃げ込んでたこの場所に重ねてたところもあると思う」
「何から逃げてたんですか」
漸く出た声は自分の声とは思えないくらい低く、案外事実を受け止めている自分を知る。
「嫁の親が認知症でさ、一生守っていくと決めた相手の親なのにどう接すればいいのか分からなくなって何もしなかった」
遠くにいくつも見えている船たちは動いているのだろうが遠すぎてずっとそこにいるように見える。私達の成り行きを息を潜めて見ているのかもしれない。
「でもこないだ突然俺の親が脳梗塞で死んで自分の親を差し置いてわんわん泣いてる嫁を見て、なんで俺はこれができなかったんだろうって目が覚めたんだ」
後半の言葉は震えていた。舟木さんの背中を撫でてあげられるほど、私はなんの悲しみも持ち合わせていなかった。せいぜい男と別れた悲しみが片隅に刻まれたくらいの小娘に何が分かるというのだろうか。舟木さんと近い気がして、本当はずっと遠い場所にいたのだった。そんなこと分かっていたはずだった。いつからこんなに傲慢になってしまったのだろうか。私は別れを告げられた自分の悲しみよりも、自分の愛する夫に自分の親の面倒をかけずに凛と待ち続けた女性の悲しみを思った。こんな小娘が夫の周りをうろついていても、甘い匂いが夫の頭から香っていても、きっと何もかも知っていながらも愛する夫の愛する親が死んだ時に泣けるほどの強さと大きな悲しみを、彼女はちゃんと懐に入れていたのだ。私が同じ土俵になど立てるはずがなかった。
誰かを愛し抜く覚悟というのはきっと想像を絶するものなんだろうし、それは相手の背後に存在する形のないもの全てを一緒に背負うことなんだろう。小手先で男を誘惑して自分の存在欲求を満たしてちやほやされている自分が酷く惨めだった。

また、はないけどまたね。と舟木さんは柔らかく笑った。あと数日会社で顔を合わせる舟木さんは、もう私の知らない舟木さんのはずだ。ありがとうもごめんなさいもお互いに言わなかった。どちらが悪かったかなど今となってはどうでもよかったのだと思う。先に坂を下りていく舟木さんの背中の横で、まだ船たちが悠々と漂っている。いつか一人でこの馬堀海岸駅に降り立ったその時には、ちゃんとこの場所に相応しい足でここまで坂を上ってこよう。その時までこの船たちも待っていてくれるだろうか。幼くむき出しになった自分のデコルテを軽く手で隠して、舟木さんの消えていった方に小さくお辞儀をした。

東白楽駅


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体なんていくらでもくれてやるから、代わりに誰かの温もりをずっと隣で感じていたかった。セックスなんてお安い御用だったし、女子大生というブランドさえあれば正直男には困らない。

 

私は今隣にいる男にさほど興味もなく、なんなら名前すら知らなかった。彼と出会ったアプリに登録されているハンドルネームのH.Kという文字列だけが、彼に関する唯一の情報である。
「東白楽なんて来たことないでしょ?」
見た目はまあまあ。背丈もそこそこ。不潔でもなければ清潔でもない。ざっと見る限り35歳といったところだろうか。少し生えた顎髭を軽く撫でながら、だるそうにざらっとした声で私に尋ねる。
「いやでも私東横ユーザーなんで名前だけは知ってました」
「えそうなの?どっから乗ってんの?」
「池袋の方です。まあなので名前は副都心線ですけど」


改札から出ると恐ろしく人がおらず、近くになんのスポットもない住宅街の駅だということが一目で分かる。それとなく見回すと右には大きな通りが見え、左には小さな住宅街がうかがえる。この感じだとこの辺りにラブホテルはないだろうし、行き着く先は恐らくこの男の家だろう。男は右の大きな通りの方へ体をだるそうに向けた。

 

出会い系アプリで男と会い体の関係を持つ。勿論親には言っていないが、このご時世結構普通なことだ。友達もみんなやっている。逆に彼氏ができた途端に一途ぶってやめていく子もいたけれど、本当つまらない人生だなと影で嘲笑していた。今遊ばないでいつ遊ぶ。早々に一人の男に囲い込まれて敷かれたレールに乗っかるのはもうこりごりだった。

 

「名前なんていうの」
名前なんてどうでもいい癖になんで聞くのだろうか。
「エリカです」
日差しが眩しい。こんな天気の良い日に知らない男とセックスをしようとしているなんて、なんだか少しバツが悪い気持ちになる。いつもそうだ。私には昔から母親に植え付けられた偽善の心があって、無駄だと分かっていても今尚ちくりと刺してくる。
「俺はカズト。32歳。Webデザイナー。独身。」
聞いてもいないのに前を見つめながら訥々とロボットのように男が言う。カズト、という名前の響きがなんだか異国のように頭に流れ込んできて、つい男の顔を覗き込んでしまう。出会い系アプリでの男は皆決め込んだ写真にこれでもかというくらいびっしりとプロフィールに自分の経歴を書き上げているのに対して、カズトは今のような顎髭はまだないつるりとした顔でどこかの古民家の前に立っている写真と共に、あっさりと「気が合ったら飲みましょう。」とだけ書いてあるだけだった。そんなプロフィールで私にいいねをしてきており、私が承認さえすればメッセージを交換できるようになっていたため、物珍しさに承認したのだった。写真とは顎髭くらいしか変わっていなかったし、2、3年前といったところだろうか。

 

私が体を安売りするようになったのは、長く付き合っていた大好きな男に別の女がいたという事実を知ったからだった。私には彼しかいないと思っていたし、それは彼も同じだろうと信じて疑わなかった。確かに少しだらしないところのある男だったが、私に対してはとても誠実だった。はずだった。ある日震えた私のスマートフォンが知らない電話番号を表示しており、簡単に言えば私が本命なのだから手を引いて欲しいと女の声で静かに牽制されたのだ。それは怒りではなく、自分が絶対的に正しいのだという自信に満ちたものだったように思う。私はハイワカリマシタと録音音声のように答えて電話を切り、全てが流れますようにと祈りながら声を殺して泣いた。

 

ただひたすら真っ直ぐな道を、相変わらず訥々と話しながら二人で歩く。冬が近づいているはずなのに、なんだか少し暑くなってきた。モコモコとかさばる白いアウターに黒いデニムミニスカートは、何度も何人もの男に脱がされてきた。服を考えるのが面倒で知らない男と会う時はこれと決めたのだった。
エリカちゃんはなんで出会い系なんてやってんの」
「復讐のためです」
「は、復讐?こわ、誰に?」
カズトは初めてこちらを見て立ち止まった。心底驚いたように少しタレ目な目元を持ち上げている。年齢の割には少しかわいい。
「彼に」
道路の反対側のラーメン屋からスーツ姿のおじさんが出てくるのをチラと見ながら、ああもうそんな時間かと思う。一人では寂しいと思う時間帯を一つ今日もクリアした。
「何されたんだよそいつに」
またさっきのような落ち着いた声に戻り、ゆっくり足を運んで諭すような色を残しながら尋ねてくる。
「付き合って長かったんですけど、浮気相手から手を引けって電話かかってきて。ていうか多分私が浮気相手だったんだと思うんですけど。」
なるほどね、とちょっとどうでも良さそうに言いながらカズトが自分のポケットに手を入れる。
「元彼、って言わなかったってことはまだ別れてないんだ?浮気仕返してやろうって感じ?」
隣のカズトの視界に入るように黙って頭を縦に振ったらなんだか顎の先から弱音が出てきてしまいそうになり、慌てて「分かりやすく浮気して、浮気について聞かれたら向こうの浮気を指摘して潔くフるつもりなんです」と付け加えた。

 

この男はどこに向かっているのだろうか。この先に家があるのか。少しずつ不安になってくる。大きな通りをひたすら二人でのんびり歩いている。大きな銀行の前を通り過ぎる。目的がありそうな雰囲気を、隣のカズトという名の男からは感じられない。
「あの、」
私の声に被さって
六角橋商店街って知ってる?」
とカズトが私に問う。知らない。
「その商店街の入口がね、すげーかわいいの。見てほしい。」
何を言ってるのかと眉をひそめた私に
「大丈夫、それだけ見たら昼飯にするよ」
と。そんなことを聞きたいんじゃないんだけど。

 

男経験を積むうちに、恋愛なんてただのままごとだったのだと思えるようになった。彼女がいる男だって平気で私と会って私の体に発情してきたし、他人の男と寝たことで自分の彼氏が他人のものだったこともなんだかチャラになる気がした。きっと誰が悪いのでも誰が正しいのでもなかった。本能というものがあらゆる事象の頂点にあったという、ただそれだけのことだったのだと。私の彼はまだ私が浮気をしていることを指摘してはこないし、もしかしたらもうどうでもいいから目を瞑っているだけなのかもしれない。それならそれで自然に逢瀬はなくなっていくのだろうし、なるようになればいい。どうでもいい。

 

「なるほど」
つい感心した声が出てしまった。まあ確かに商店街という古ぼけた名前がついている割には、ステンドグラスのようなデザインの中にあえての昭和レトロのようなフォントで六角橋商店街と書いてあって、かわいい。これだけといってしまえばそれまでだが、私は嫌いじゃなかった。
「な、かわいいだろ?俺の家全然ここ最寄りじゃねーんだけど、これもあって東白楽お気に入りなんだよね」
「え最寄りじゃないんですか」
つい吹いてしまう。なぜここを指定したのか。
カズトは「お、」という顔をして、
「初めて笑ったじゃん。じゃ昼飯でも食お」
と言って、商店街には入らずにくるっとUターンした。なんだよ、商店街の中で食べるんじゃないのか。商店街から少し戻ったところの大量のメニュー写真が立て掛けてある中華料理屋にぬるっと入る。

 

オススメはかた焼きそば。と相変わらず無表情な声で伝えてきたので、二人でかた焼きそばを頼んだ。客がまばらで、奥に長い店だった。中国人の店員が無愛想に行き来している。
「俺はさ」
よくよく見ると本当に穏やかな目をしている人だな。声もまた然り。
エリカちゃんと同い年くらいの恋人がいたんだ。つい一ヶ月前まで」
「へえ、フラれちゃったんですか?」
若いカップルが自動ドアを開けて入ってくる。いらっしゃいませお好きな席にどうぞーという店員の声に応えて、二人でどこに座ろうかと仲良く悩んでいる。
「いや、死んだんだよね」
「え」
空気が止まったところで、タイミングよくかた焼きそばが運ばれてくる。いい匂いだが、食欲が消えた。なんで、と言った自分の声が掠れていたのは、ずっと感情がなかったカズトの瞳にわずかながら悲しみの色が浮かんだからだったのかもしれない。カズトはそれを隠してか無意識か、固まった私を横目にくるーっとかた焼きそばの上にお酢をかけていく。

 

でもまだ俺の心の中の恋人は成仏しきれてやれてないんだ。とかた焼きそばを箸に絡めながら静かに言った。結婚を一週間前に控えていたらしい。幸せ真っ只中だと思っていた筈が、その日彼女は他の男と寝ていて、その相手に刺された。男の供述では長らく浮気相手として関係を続けていたが、結婚するからもう会えないと告げられ逆上したということだった。最愛の相手と恋人という関係のまま死なれた人間と、恋人にはなれなかったがその手で最愛の相手の最後を下した人間はどちらが不幸だったろうか。どちらが勝ったのだろうか。

 

彼女の住んでいた東白楽に全く関係のない第三者的女性と来て、成仏させたかったのだと言う。
「一人じゃとても来れなかったんだ、悲しすぎて」
100円玉を切らしてるんですけど全部50円玉で返してもいいですか?と少しラフな日本語で話しかけてくる店員に、気前よくどうぞどうぞと返している横顔を見ながら、こんなに優しそうな男でも浮気されるのだとぼんやり思う。


浮気されているのならそれはそれでも全然構わないと思えるくらいに大好きな人だった、と目を伏せてかた焼きそばの最後の一口を頬張ったその顔を直視できずに、私はずっとその顎髭を見ていた。もぐもぐと動く顎髭を見ていた。そうでもしないと泣いてしまいそうだった。なぜだかはよく分からない。

 

「こんなんに付き合わせてごめんな」
最初の時よりも少し頬が柔らかくなったような顔で、改札前で向かい合う。脱がされることのなかったハリボテの私の服たちが、死ぬほどに恥ずかしかった。
「俺は浮気は悪いことだとも言わないし、エリカちゃんが復讐したい気持ちも痛い程分かるよ。分かるけど」
来た時よりも人が多い。学生くらいの集団がぼこぼこと入ってくる。近くに大学があるのだろうか。
「俺は浮気をさせたような自分を何度も恨んだし、浮気を白状させてあげられなかった自分を何度も憎んだ」
何事にも理由があるはずなんだよ、と真っ直ぐに私に語りかける。私の向こう側に、死んだ彼女がいるように。静かに。
「話し合えるうちに、ぶつかり合えるうちに、小さな芽は潰しておけよ」
親父くせー説教しちゃったわごめんなと小さく笑って、じゃあなとくるりとこちらに背を向ける。車をコインパーキングに停めたと言っていたカズトが歩きながらポケットから車のキーを出したのが確認できたところで、その背中はすぐに見えなくなった。

 

自分と同い年くらいの学生たちに紛れながらぼんやりとその背中のいなくなった方を見つめ、ハリボテのスカートのポケットからスマートフォンを取り出す。2回大きく息をつく。ぶつかり合えるうちに。迷いが生まれてしまう前にと、すばやく昨日塗り直した爪を画面上で滑らせる。
「あ、もしもし?あのさあ、顎髭生やす予定ないの?」
右耳の向こうから素っ頓狂な ええ何?顎髭??という声が聞こえる。カズトより半音くらい高い。
「うんそう。顎髭。似合うと思うんだけど」

 

八丁畷駅


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もう嫌気がさしていた。そこに弁解の余地などなかった。 なんと言われたって、泣きつかれたって、 頬をぶっ叩いてでも終わりにしようと決めていた。


真昼間の八丁畷。 頭の悪そうな女子高生たちが駅前のファミリーマート前に自転車を 停めて黄色い声をあげ、 すぐそこで乞食のような男が煙草をふかしている。 川崎の治安の悪さはこの数年でよく分かっていた。
高橋は京急川崎の駅が最寄りのはずだったが、 なぜ今日ここを指定されたのかはよく分からない。 高橋の家に遊びに行く度キャッチに捕まりナンパに捕まり嘔吐する サラリーマンを見かけ道端で寝ているホームレスを見かけた。 そんな風景を見て「何が良くてこんな街に住んでんの。 早く引っ越してよ」とせっつく私を高橋はいつもなだめ、「まあ、 ゆくゆくね」と何でもないことのように答えていた。… 思い出したらまた苛々してきた。


高橋、という呼び方は、 先輩後輩の関係の頃から付き合い始めて今までずっと変わったこと がない。高橋は一年年下、私は一年年上。高橋は私のことを「 先輩」だった時は沙也加さん、「恋人」になってからはさや、 と呼んだ。高橋が私を呼ぶ時の声はいつも甘く、 付き合いたての時は呼ばれる度に目を細めたものだった。 彼の私を呼ぶ声は今だって変わらないのに、 何が変わってしまったのか。私なのか。彼なのか。


高橋から指定された時間まではまだあと10分ほどあった。 私が別れを切り出すために呼び出したはずなのに、 なぜ彼が場所も時間も決めたのか。今考えてみれば変な話である。 彼にはいつもそんなところがあった。飄々としていて、 さらっと聞き流しているとあたかも全て彼が正しいかのような錯覚 に陥る。彼が「俺は働かないから就職しない」と言い出した時も、 突然すぎたのは勿論のこと、 堂々と嬉しそうに言うものだからつい「あ、そうなんだ」 と頷きかけた。
一方の私は年上だからもう社会人として両足を踏み込んでいて、 けれども夢を諦めきれなかった結果、 小さな子供用品店で広報係として簡単なイラストを描いていた。 イラストレーターでそう簡単に食っていけるはずがないと分かって いたし、そちらが本職ではなく販売員がメインであっても、 少しでも絵が描けるならとここを受けた。ここに決まった時、 高橋はなんと言ったんだっけ。 たった一年前のことなのに思い出せない。 そんな癪なことを言われたのだったか。そんな気もする。


夢を追うということがどんなに難しいことなのかは、 誰よりも自覚しているつもりだった。 この世に必要とされているイラストレーターなんて分母が限られて いるし、 そのほんの一握りに自分が入れるなんて思えるほどロマンチストで はなかった。
八丁畷駅で、と言われたはずだったが、 黙って待っているのも癇に障るのでてくてくと歩き出す。 私のことを探せばいい。全部手に入るなんて無理だって、 思い知ればいい。私はあなたの思い通りにはならない。 それでも彼は余裕な顔をして「そうか、じゃあさよならだね」 なんて笑うだろうか。そうしたら私はどんな顔をするだろうか。


土地勘のない私は、 とりあえず先ほどのファミマを右手に大きな通りに沿って歩き出す 。車の通りは多く、 小さな駅の割には需要のありそうな場所である。 春の匂いがほかほかと漂ってきている中、 私はおろしたてのネイビーのトレンチコートの袖を軽く捲った。 別に高橋のためにお洒落なんてしてきた訳じゃない。 最後に綺麗な私を記憶に留めさせて、後悔して欲しかっただけだ。 そうは言っても白のコンバースのハイカットに薄い青の滲んだボー イズデニム、 白のシャツといったいつも通りのラフな格好ではあるのだが。 最後まで一目で気合が分かるものを着てこられるほどかわいい女に はなれなかった。 せめてものおニューのコートとそれに合わせた塗りたてのネイルカ ラーと少し背伸びした大振りのイヤリングに、 心の奥底でごめんねと呟く。


どうやら上を電車が走っているらしい大きな音の下をくぐるともっ と大きな通りに出た。ちょうど青信号が瞬いていたので、 慌てて小走りで渡り始める。と、 そこでちょうど最近画面にヒビが入った私のスマートフォンが鈍い 音を立てて震えた。
「…なに」
息が荒いことに気づかれないように、一言発する。 今さっき私が走ってきたところを、 大きなトラックがぐわんと時空を揺らして通り過ぎてゆくのを横目 で見ながら、あーあ、と思う。 本当に心配させたいなら電話になんて出なければいいのに。 私はこんなだからナメられるんだな。
「どこにいんの?俺今ナワテ着いたよ」
八丁畷のことをナワテなんて略すのだろうか。 どうせまた適当言ってるんだろう。
「今もう歩き始めた」
「え、どこに?ていうかどうしたの、怒ってんの?」
高橋の声が穏やかに耳をくすぐる。こんな時にも呑気な奴。 横断歩道から真っ直ぐに続く道を歩きながら、確かにな、 私はどこに向かって歩いてるんだろうなとぼんやり思う。 一言さよならを言えばいいだけなのに、 こんなことをして時間を延ばしたってなんの解決にもならない。 くだらない女だな。
「でもその音、大通りの方だろ。 今から行くからそこで止まっててよ」
「…うん」
気持ちと言葉がちぐはぐに青い春空に飛んでいく。 素直になりたくない気持ちと素直になりたい気持ちと、 どちらが勝ったら高橋とさよならをせずに済む?いや、 どちらでも今更もう答えなんて変わらないのか。


同棲をしたい、 結婚をしたいと口にする回数が多いのは高橋の方だった。 私も勿論したくない訳じゃなかったけれど、 やはり彼が年下なこともあってどれだけの現実感があるのかが分か らず、まだしばらくは夢でしかないと思っていた。 それでも高橋に何度も何度も言われているうちに、 確かに高橋とだったらいいのかもしれない、 高橋も真剣に考えてくれているなら左程遠い未来ではないのかもし れないと期待を抱くようになっていた気がする。その矢先だった。 就職をしないと言い出したのは。突然バンド活動を始め、 私になんの話もないままバイトを毎日入れ始めた。 理由を問い詰めても「やりたいことをやることにした」 の一点張りだった。
やりたいことってなんなのだ。 私はやりたいことを我慢して妥協してお金を稼いでいるっていうの に。それでいて私とやれ同棲したいやれ結婚したいなんて、 ヒモになりたいということなのか。 高橋に問えば問う程私たちの距離感は離れていったし、 高橋も口を閉ざした。分かっている。 私は自分で選んで夢を捨てただけだ。 高橋のためなんかじゃないし、 高橋にそうしろと言われた訳でもない。要は、 ただの僻みでしかない。それでも、 私のこんな辛さだって理解して欲しかったのだと思う。 一緒に犠牲を払ってくれるだけの愛が欲しかったのだと思う。 それから高橋の全ての言動が、許せなくなってしまった。


さっきの大きな横断歩道をゆっくりと渡ってきた高橋は、 勝手に歩き出した私を叱るでもなく、穏やかに「 今日あったかいね」と私を覗き込む。
「…そうだね」
「ナワテ初でしょ?どう?」
「どうって…」
自分の凍っていた心がじゅわじゅわと溶けていくのが分かる。 これだから嫌なのだ。高橋と直接話をするのは。 彼のペースに見事に飲まれる。
今日の高橋を横目でそろりと眺めるといつもの通りのカジュアルさ だが、 見たことのないお洒落目な七分丈ズボンに見たことのないお洒落目 なオックスフォードシャツを着ている。 バレない程度に気合を入れてきているのが分かり、 不安な気持ちが体を隙間風のように通り抜ける音が聞こえる。 高橋も何か私に大事な話があって呼んだのだろうか。まさか、 先に別れを切り出すつもりなのだろうか。 穏やかに口角をあげる横顔からは何も伝わらない。


「ほら見てここ。俺のお気に入りの公園なんだ」
考え事をしているうちに目的地に着いたらしい。 特にこれと言って特徴がある訳でもないごく普通の公園。 さほど広くはないが、 住宅街の中に紛れていることもあってかとても居心地が良さそうだ 。
「…川崎らしくないね」
「さや、気に入った?ならよかった。本当は川崎新町駅が一番近いんだけどね。散歩に丁度いい距離感だったでしょ?」
気に入ったなんて単語は一度も口にしていなかったが、 高橋は満足そうに公園に足を踏み入れた。けれど、 今はこんな居心地が良くなっている場合ではない。早く、 もっと飲まれてしまう前に言わなければ。
「高橋…」
陽だまりの中で、高橋が聞こえてか聞こえずか「ん」 と呟いてふわりとこちらを振り向く。そうだった。 私はこの人の返事や相槌の打ち方が大好きだった。 私がなんの話をしても否定せずにうんうんと首を縦に振り、 名前を呼べば必ず「ん」と呟いて振り返った。
「お腹空いただろ。ファミマでおにぎり買ってきたから食おうよ」
何も知らずにコンビニの袋を私の前に掲げる高橋の向こうで、 貨物列車が音を立てて通り過ぎていった。


「俺、言わなきゃいけないことがあるんだ」
来た。と思った。終わりだ。 私の態度が最近おかしいことはいくら疎い高橋だって気づいていな いはずがなかった。頭の中がすうっと冷たくなり、 言葉が文字を成さなくなっていく。 すぐ近くにある砂場に三角でかたどられた砂の塊が並んでいるのを ぼんやり見つめる。
「待って。私から言わせて。」
「いや」
「もう無理だからさよならしよ」
高橋の遮る声を更に遮って告げる。 高橋の顔が薄っぺらくなっていくのが分かる。 迷っていたら言えなくなると思った。先に言われたくなかった。 でも、それ以上に高橋と時間を過ごせば過ごすほど、 言えなくなると分かっていた。 自分の言った言葉にショックを受けて何も言えなくなった私を高橋 はしばらく呆然と見つめた後
「俺はさやに夢を叶えてもらいたいと思ってるんだ」
と小さく、春風に飛ばされてしまいそうな声で呟いた。


高橋が私の夢を否定したことってあっただろうか。 私が就職が決まった時。そうだあの時。思い出した。 神保町の喫茶店で、 内定をもらいこれでいいのだと自分に言い聞かせていた あの日も、高橋は確かに今日と同じ言葉を私にくれた。 それでいいはずがないことなど、私は勿論、 多分高橋もよく分かっていた。
「俺はさやに夢を叶えてもらいたいと思ってるんだ。 さやの絵のファン一号はずっと変わらずに俺だし、 必ずいつかはイラストで食っていけるように二人で頑張ろう」
なのに。 なのに私は高橋の夢など無視して就職就職と騒いで挙句の果てには 別れを切り出したというのか。
自分の都合の良さに眩暈がして、 取り返しのつかないことを言ってしまったと涙腺が震えた瞬間に、 高橋の低く優しい声が頭の上から降ってくる。


「俺、調理師の学校に通うことにしたんだ」
「…調理師」
まだ自分の声が震えている。 公園に犬を連れたおばあさんが入ってくるのが見える。
「そう。だから就職はしないってさやに言った。 喫茶店を開くのが夢で、 そのためにはやっぱり形のある資格を持たなきゃ駄目だって思った んだ」
体から力が抜けていくのが分かる。 どうしてそれを早くに言ってくれなかったの。 どうして私がこんな欲まみれになる前に相談してくれなかったの。
「やるからには本気でやりたいと思ってるから、 近々海外留学も考えてる。 まだ曖昧な段階でさやに話したらパニックになるかもしれないと思 って言えなかった、ごめん」
だから、と言って高橋が一息ついて長い睫毛を伏せる。
「俺が調理師の資格を取って無事店を出せた暁には、 さやの絵を飾って画廊喫茶店を開こう。それを信じて、 もう少しだけ待っていて欲しい」


夢だけでは終わらせないから、と小さく、でもしっかりと発した言葉に泣き崩れた。何も見えてなかった。私はいつだって目の前のよく見えるところしか見ていない。そして端的に判断する。この川崎の街だって、こんなに優しい一面があることを知らなかった。高橋は。高橋はいつだってちゃんと見えていたんだね。今だけじゃなくて、先のことも、私のことも。ごめんなさいごめんなさいと繰り返す私の背中を高橋はずっと撫で続けた。


「さっきさやが言ってくれたさよならはさ」
漸く嗚咽が落ち着いてきた自分の体が、新しくおろしたネイビーのトレンチコートが、高橋の奥に見える砂場に並んだ尖った砂の塊たちが、全てが聞き慣れた低い声を聞いているようだ。今この世界には私たち二人だけなのかもしれない。
「漠然と夢を追いかけてた二人へのさよならにしよう。これからは目標に向かって進むだけだ」
掠れた声でそうだね、と言って、年下だったはずがいつの間にか頼もしくなった頬に、触れるようにキスをした。


さよなら。夢に揺れた私。

みなとみらい駅


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「なんだか納得のいってない顔だね」


父は私の顔を覗き込んで少し困ったように微笑んだ。控え目に目元に皺が刻み込まれているものの、57歳という年齢の割りにはハンサムだ。と私は常々思っている。そんな父は、私にとって自慢の父だったし、母よりも父の方が多くのことを相談できたと言っても過言ではなかった。

 

母が夜勤でおらず、自分はノー残業デーだから一緒に夜ご飯でも食べないかと連絡が入ったのは今日の昼。定時である17時15分の5分後きっかりに父はみなとみらい駅直通の ”長いエスカレーターの上” に現れた。分かりやすい目印が他に全くない訳ではなかったが、仕事終わりに父が指定するのはいつも “長いエスカレーターの上” だった。お疲れ様、と父に微笑みかけると、父もわざわざありがとうと目尻を下げた。

 

「美味しいパスタ屋さんを見つけたんだ」

と嬉しそうに教えてくれたこの店は、確かに初めてであり、雰囲気もとてもいい。こんな近くにこんな穴場があったとは。優柔不断な私を気遣い、いつものように自分が決めてからメニューを全て私に渡し、父は穏やかに私を見つめた。いつもと変わらぬ光景だった。父と仲の良い私は時々こうして父と外食をする。よく羨ましがられるが、私の家では普通のことだったので小さな頃はよく首を傾げたものだった。なぜ多くの女の子が父親を嫌がるのかが理解できなかったし、それを母親に聞くといつも必ず

「お母さんの大好きな人を瑞希に嫌いになってほしくなかったもの。お母さんが頑張ったのよ」

と言っていたっけ。最近は尋ねなくなったけれど、今だって同じように答えると思っていた。けれど、違ったのだろうか。
父のたった一言がそんな日常を一瞬で全て消し去った。

 

「納得がいってないっていうか、意味分からないよ。どういうこと?」

「今話したことが全てだよ。瑞希ももう来年には社会人だし、お父さんとお母さん二人で今後の話をした時に、一緒にいる未来よりもそれぞれ別々の未来を進んでいる姿の方がしっくりきたんだ」

「そんな綺麗事いいからさあ、なに?お互い好きじゃなくなったってこと?」

自分の声が思っている以上に苛立っている。父が口を開きかけた瞬間、店員の お待たせしましたあ明太子とゆずとイカのスパゲティでえす というよく通る声が上から降ってきたので、私は黙ってぺこりとお辞儀をした。

「この話は後にしよう。せっかく美味しいパスタが来たんだから楽しく食べよう」

自分で言い出した癖に、父はそう言いながら既に先に来ていた自分のジェノバソースのスパゲティをフォークに巻き始めている。

ふと右を見ると外には広いテラスがあり、目の前に小さな頃に何度か乗せてもらったコスモワールドの観覧車が見えた。私の口は両親の離婚の話を諦め、卒業研究のことをするすると出していく。よくもまあこんな動揺している時に私も呑気なものだ。ゆずの爽やかな香りと明太子のピリッとした刺激が舌の上を滑っていくのを感じ、ああやっぱりパスタは私の味方なのだとぼんやり思う。

 

東急スクエアを真っ直ぐに突っ切り、二人で迷いなくみなとみらい線みなとみらい駅とは逆に歩き出す。これも私の家族内での決まりで、みなとみらいから帰る時にはみなとみらいから横浜までは必ず例外なく歩くのだった。

「お母さんとは、職場内恋愛だったんだ」

ふうん、と言いかけて えっ とつい声が出る。

「知らなかったよそんなの」

「そうだね、瑞希の前でこういう話はしたことなかったかな」

最近綺麗に整備されたマークイズと横浜美術館に挟まれた道は、ロマンチックにライトアップされている。少しオレンジがかったライトに照らされた父の横顔を盗み見ると、ちょっと不思議な気持ちになった。

「お父さんがお母さんを口説いたの?」

「口説いたっていうのかなあ、どんなに教えてもコピー機の使い方がまるで分からないお母さんにお父さんがつきっきりで教えているうちに気づいたら付き合ってたんだよ」

「何それ怪しい~」

「本当だってば」

確かに両親から馴れ初めなんて聞いたことがなかった。私の彼氏の話ですら、なんだか恥ずかしくて話したことがないくらいだ。父は時々すれ違う手を繋いだカップルをちらと瞳に写しながら、母との今までを訥々と話してくれた。母とのデートの待ち合わせ場所にエスカレーターを上がった上を指定していたらしい。なるほどその名残を私が受け継いでいるという訳だ。無論当時はまだみなとみらいという場所はないので、別の駅の話だろう。

 

どんなに好き合っていてもいつか終わりは来る。らしい。結婚なんていう法的縛りなんて、なんら関係なかったのだ。馴れ初めを聞きながら、涙腺が震えているのが分かる。自分の両親だからとかじゃない。勿論それもあるけれど、なんだか虚しくて仕方がなかった。この気持ちをどこに追いやればいいのか見当もつかない。どうしてくれるというのだ。どうしたらいいのだ。大好きなお父さんとお母さんは、一体どうなっていってしまうのだ。誰かに泣いてすがりたい。夢であるなら早く覚めてほしい。

 

相当ゆっくりとしたペースで歩いていたが、気づいたらもう日産本社の丸いビルが見えていた。父のスーツがその淡い光を反射しているのを見ながら あのさあ、とその肩に話しかける。

平日の21時という時間からか、さほど人もおらず、明らかに仕事帰りの人たちがちらほらと足早に歩いている。彼らは家に帰るのだろうか。その家には誰が待つのだろうか。妻?旦那?子供?犬?それとも友達?
「ん、どうした?」
「お父さんとお母さんどちらかにはこれからは全然会えなくなるの?」
なんでもないような声色を作ったつもりだったが、少し震えた。
「いや、お父さんもお母さんもお前が大好きだから勿論これからも会うよ。ちなみに、家を出ていくのはお父さんなんだ。」
お母さんだって、お父さんのことを大好きな人だと私にあんなに何度も言っていたのに。
「うん」
「お父さんは今の会社を辞めて、長野でずっと夢だった喫茶店を開く。瑞希も遊びにおいで。」
長野は、父の故郷だった。その一言で私は全てを悟った。横浜は母の大好きな街だし、母は父に着いて行かないという結論を出したのだろう。そして父も同様に、大好きな街への夢を折ることができなかったのだろう。私がここでどんなに泣いてすがったって、二人の心が変わるとは到底思えなかった。私と父はその後黙ったまま、明るく騒がしい横浜駅に吸い込まれていった。今日の長すぎる夜の散歩の終わりである。

 

あのみなとみらいの長いエスカレーターで父を待つことは、きっともうない。母もきっと、父を長いエスカレーターの上に探すことはもうないだろう。けれど不思議と先程までの絶望的な気持ちは消えていて、なんだか温かい何かが心を包んでいた。コピー機すらまともに使えなかった母が、大好きな父ではなく大好きな街を選んだのだ。もう一人で生きていけるから大丈夫だという父へのメッセージだった。


最寄りの駅から父と歩きながら、さよなら、そして初めまして、と心の中で一人呟いた。

弘明寺駅

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いつかがいつか来なくなることくらい、俺にだって分かっていた。

俺だって何度も女に口にしたいつかを名も知らぬ駅の道端に捨ててきた。それでも今回のいつかは実現しない訳なんてないと思っていた。油断していたのかもしれない。

 

ばあちゃんの危篤が伝えられたのは昨日だった。東京に出て遊び歩いてぬるま湯に浸かりきっていた俺にとっては寝耳に水の話だった。ばあちゃんがガンだなんて両親からなんの連絡も来ていなかったし、それも半年前から戦っていただなんて。ちょうど俺が最後にばあちゃんと会ったのはガンが発覚する一週間ほど前だったらしい。
「敦、最後くらい顔を見せてあげなさい」
耳元で冷たく響いた母親の声はもう諦めの色が滲んでいた。それは俺が行くはずがないという諦めというよりは、恐らくばあちゃんの可能性という意味で。最後なんて大袈裟な。そんなことより母親の声はこんな声だったか。そういえば母親にも随分長く会っていない気がする。父親は元気なのか。まだ飲み歩いているのか。いやそんなこと俺が聞けた話じゃないか。頭の中をぐるぐると旋回した色んな?は、「分かった明日行く」という乾いた自分の一言に吸い込まれていった。

 

結局その「明日」は、永遠に来なかった。ばあちゃんは夜中に、つまるところの「今日」と「明日」の狭間に息を引き取ったのだ。

 

ばあちゃんは俺が小さい頃から、共働きだった両親の代わりに愛情を惜しみなく注いでくれたたった一人の人間だった。京急弘明寺駅から歩いて15分。学校終わりにランドセルを背負ったまま10分くらい電車に揺られてよくばあちゃんちに通ったものだった。思えばあの頃見えていた景色は今より遥かに色鮮やかだったし、その色を探して都心に出てきたはずなのに見つかるどころか失ってしかいないのはなぜなのか。

 

京急弘明寺駅を出ると、右に行けば商店街、左に行けばばあちゃんち。平日昼間にも関わらずやはり人通りがそこそこにあることも、あの頃から何も変わっていない。なんとなく右方向に足を滑らせ、商店街の方へ坂を下る。
「あっくんは何が食べたいかな?唐揚げかな?ラーメンかな?」
どんなに大きくなってからもばあちゃんがこの坂を下る時に俺に話しかける口調は子供向けだった。照れ臭いながらも昔からの慣れでやはり心地よく、よく「今日はラーメンかな」と素直に答えていたものだった。突き当りにはパチンコ屋。道なり左に曲がると商店街。目を瞑っていたって分かる。

 

「敦くんって誰のことも好きになる気なんてないでしょう?」
と俺に穏やかに問いかけたのはどの女だったか。本気の恋愛などとうに捨てていたし、夢を追っているバンドマンという名目のちょっと顔のいい男を選ぶ女なんて、好きになれる訳がなかった。その時にいい気分になって、気持ちよくなって、都合が合わなくなれば顔を見なくなる。ただそれだけだった。どうせ向こうにも金のない男になんて長く抱かれる気はなかっただろう。


東京という街は大きくて冷たくて眩しくていつも睡眠不足で、あんなに憧れていたはずだったのにいつしか呪縛のように出られなくなっていた。今弘明寺を歩く自分の足を見て、俺の足がこんなにゆっくり動かせることに気がつく。東京で一心不乱に歩いていたついさっきまでの自分の足を思って、帰れない帰れないと泣いていたのは他でもなくこの足だったのかもしれないとふと思った。

 

ばあちゃんは炒飯が好きだった。俺がラーメンがいいと主張した時でも、商店街入ってすぐ右側の中華料理屋を見ると「やっぱり中華にでもしようか」と捻じ曲げられることも多々あった。11:30。混んでいるだろうか。こんな時に入るべきではないだろうか。立ち止まる俺を通行人が怪訝そうに見ている。いいや。俺の足の行きたいようにさせてやろう。

 

俺はいつもラーメン、ばあちゃんは決まって炒飯。ただ炒飯の種類が豊富だったこの店で、唯一キムチ炒飯だけをばあちゃんは食べたことがなかった。
「いつか食べてみたいの」
と言いながら、だからまたここに来る時はあっくん付き合ってねといつも嬉しそうに笑っていた。なぜキムチ炒飯だけ食べなかったのか、当時は考えもしなかったので尋ねたことはないが、一体どんな理由があったのだろうか。


「キムチ炒飯ください」
ばあちゃんと来ていた頃から変わらない茶髪のおばさんと恰幅のいい日本人ではなさそうな男に声をかける。愛想がいい訳ではないが、俺もばあちゃんも気にならなかったし、かえって居心地よく感じたものだ。

改めて落ち着いて周りを見渡すと他の客は平日ながら結構多くて、これだけ人気だから潰れなかったのだなと感心する。かなり綺麗というまではないが、シンプルでさっぱりとした内観で無駄がない。ここは確か店内で食べるだけでなく外にテーブルを出してテイクアウト用の中華料理も売っていたはずだ。今晩はここで買っていこうか。

 

「はいキムチ炒飯です〜」
頭の上から突然降り掛かった声に慌てて「はい」と前に向き直ると、おばさんがじっとこちらを見ていた。
「あなたここによくおばあさんと来ていた方よね?」
顔を覚えられていたのか。まああれだけ来ていたら当然だろう。
「はい。」
少し身をこわばらせて答える。
「今日はご一緒じゃないのね。おばあさん、お一人でも何度か来てお一人の時は必ずキムチ炒飯を召し上がって行ってるのよ。」
「キムチ炒飯を…?」
目の前に置かれたキムチ炒飯は少し湯気が上がっていて、どこからどう見ても美味そうだ。
「あなたの前では食べなかったでしょ?あなたとここに一緒に来る言い訳にしているのって前に一度だけそんなことをぽっつり仰っていた。」
おばさんはにっこり微笑んで、おばあさんの秘密をバラしちゃったわね、知らないフリをしてねと厨房に戻って行った。

 

俺の涙腺は壊れたはずだった。もうしばらく泣いていなかったし、感情などとうに消え失せたと思っていた。それでも、大好きなばあちゃんが最後まで明かさなかった秘密を聞いて我慢ができなかった。そんな言い訳なんてなくたって俺はばあちゃんといくらでも中華料理を食べに行ったよ。いつかキムチ炒飯を食べるって約束したんだからちゃんと果たしてから逝ってくれよ。こんなにばあちゃんに会いに来れていなかった不孝者の俺を恨んだ。恨んでも恨みきれないほど、恨んだ。

 

厨房に背を向けて座っているのをいいことに、ぼとぼとと涙を落としながら拭いもせずに温かい炒飯を頬張る。ピリリと口の中で刺激を振りまくキムチを、マイルドで優しい味の炒飯が包んでいる。ばあちゃんが住んでいたこの街はもうよそ者になってしまった俺にもこんなにも優しくて、こんな罪人に一欠片も刃を突き刺すこともない。


今この時にも東京の街は騒々しく人が行き交い、誰一人、たった今すれ違った相手の顔すら思い出せない。東京の家に、契約更新の時期が迫っている。

 

ポケットでさっきからプルプルと何かのアラームのように震えるスマートフォンに指を滑らせ、耳に当てる。
「もしもし母さん?俺、帰るよ。」