辰巳駅

「沼にハマる」という言葉がある。 言葉通りずぶずぶと足を取られて抜け出せないことを指す言葉なのだけれど、この言葉を作った人間はこんなに苦しい思いを味わって作ったのだろうか。この手を伸ばせば伸ばすだけ掴めない骨ばった腕を。走れども走れども横…

高田馬場駅

彼女を知らない人はいなかったと思う。大して異性に興味のない俺ですら知ってたんだから、恐らく。彼女は入学当時からちょっとした有名人で、「春香さん」という名前らしかった。このマンモス大学の中、学部も違った俺が彼女の名前を知っているだけで彼女が…

馬堀海岸駅

私じゃ駄目なことくらい、随分前から分かっていた。 分かっていながらちょっかいを出したのは私で、長い線を一本しっかり引いておきながらそこに乗ってきたのは舟木さんの方だった。だからといって舟木さんは責められないし、だからといって後ろ髪を引かれず…

東白楽駅

体なんていくらでもくれてやるから、代わりに誰かの温もりをずっと隣で感じていたかった。セックスなんてお安い御用だったし、女子大生というブランドさえあれば正直男には困らない。 私は今隣にいる男にさほど興味もなく、なんなら名前すら知らなかった。彼…

八丁畷駅

もう嫌気がさしていた。そこに弁解の余地などなかった。 なんと言われたって、泣きつかれたって、 頬をぶっ叩いてでも終わりにしようと決めていた。 真昼間の八丁畷。 頭の悪そうな女子高生たちが駅前のファミリーマート前に自転車を 停めて黄色い声をあげ…

みなとみらい駅

「なんだか納得のいってない顔だね」 父は私の顔を覗き込んで少し困ったように微笑んだ。控え目に目元に皺が刻み込まれているものの、57歳という年齢の割りにはハンサムだ。と私は常々思っている。そんな父は、私にとって自慢の父だったし、母よりも父の方が…

弘明寺駅

いつかがいつか来なくなることくらい、俺にだって分かっていた。 俺だって何度も女に口にしたいつかを名も知らぬ駅の道端に捨ててきた。それでも今回のいつかは実現しない訳なんてないと思っていた。油断していたのかもしれない。 ばあちゃんの危篤が伝えら…

多摩川駅

さよならの日だった。 彼はマフラーに顔を埋めながら、多摩川駅の閑散とした改札前の柱に寄りかかってこちらに軽く左手を上げた。忙しい彼が遅刻をせずに私を待っているのは珍しく、今日は雪でも降るのではと思いながら「お待たせ」と声をかけた。彼はいつも…