多摩川駅

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さよならの日だった。
彼はマフラーに顔を埋めながら、多摩川駅の閑散とした改札前の柱に寄りかかってこちらに軽く左手を上げた。忙しい彼が遅刻をせずに私を待っているのは珍しく、今日は雪でも降るのではと思いながら「お待たせ」と声をかけた。彼はいつも通りネイビーのニット帽を軽く頭に乗せ、眩しそうに私の方に焦点を合わせる。駅の青白い光がやけにチカチカと目の中を瞬くのが気になりながら、彼の横に並んだ。

いつもはさあどこへ行こうかと会議の時間があるのだが今日は前々から行こうと話していたカフェが目的だったので、迷いなく進みだした彼の歩幅に合わせて私も足を踏み出す。18時に待ち合わせしたはずが、駅を出ると街はすっかり暗くなっていた。かつて一つの影となって歩んでいたはずの二人の影は重ならずにフラフラと適度な距離を保って歩いていく。
短いトンネルをくぐると、左側には今私が乗ってきた東急東横線の線路が真っ直ぐに続いていて、右側にはちらほら控え目に明かりのついた居酒屋やらが連なる。まるで私たち二人みたいだ、と思ったけれど、具体的にどこがどう私たちみたいなのか自分でも分からなかった。
「最後に多摩川台公園の紫陽花、見たかったな」
彼が道端に落としたように呟いた言葉に静かにそうだね、と返しながら、忙しさが災いとなった二人のこの二年間を想った。

多摩川は静かな駅だった。二人ともそこが好きで、飽きずに幾度となく足を運んだものだった。春には桜、初夏には紫陽花が楽しめる多摩川台公園や、休日には少年野球を眺められる河川敷沿い、少し歩いた先の大通り沿いの寿司屋まで行ったこともある。混みあった寿司屋の店内でひたすら待ちながら二人で顔を突き合わせてスマホゲームに熱中したことは記憶に新しい。なんでもない季節にも、改札前のコンビニでお菓子を買って河川敷でお菓子パーティーだってした。また多摩川の近くには綺麗で大きな家が多く、ただ住宅街を散歩しているだけでも楽しかったし、その相手が彼であったから話も幾らでも弾んだ。さよならの場所をここに選んだのも、勿論そんな毎日を思い返して二人にとって大切な場所だったからという理由に他ならない。

左手に踏切が見えたら、もうお目当てのカフェはすぐ右にあるはずである。確かあの踏切も渡ってみようと渡ったら見事な坂になっていて、長い散歩に疲れた不機嫌な彼と言い合いになったっけ。

お目当てのカフェは空いていた。ハンバーガーが美味しいと聞いていたが食欲がなかったので生レモンサワーを頼み、彼は少し悩んだ末にグラスワインを頼んだ。店内はこじんまりとしながらも自由な雰囲気を出していて、木を全面に出したインテリアが気に入った。店内からは電車が通り過ぎるのがよく見える。
「優菜は俺と別れた後に多摩川来るの?」
「しばらくは来ないな、大樹は来るの?」
「一生来ない」
一生来ない、か。私たち二人の永久欠番が今日この神奈川と東京の境目に生まれる訳だ。思えば彼は確かにそんな人だった。多分これからそんな彼を忘れないし、彼も変わらずそんな彼のまま生きていくんだろう。けれどそんな彼を見つめ続けていくべき人は私ではない。

少しずつアルコールの効いてきた頭が、今日が最後の日だということを忘れさせる。そんな私の甘さを見抜いたように、それまで当たり障りのないゼミの教授の文句をたれていた彼が
「俺らなんで別れることになったんだろうな」
と先ほど頼んだソーセージを見つめながら呟いた。小さく息を飲む。そんなの私だって聞きたいよ。でも、このままじゃ駄目だって言い出したのはあなたでしょう?…とは、言えなかった。言えるはずがなかった。
「仕方ないよ。進む線路が違ったんだもん。」
彼にではなく、誰よりも自分に言い聞かせるように小さく、でもしっかりと釘を刺した。多摩川の流れを前に、ひたすら夢を語ってくれた声が、お菓子パーティーをする度に袋が開かず悪戦苦闘する私から奪い、容易く開けて馬鹿にしてくる笑顔が、散歩しながらさりげなく手を探して繋いできてくれた温もりが、煙のように消えていくのが見える。寂しくなんかない。

二人で時間を引き延ばすように少しずつ食べていたフィッシュアンドチップスもとうとうなくなり、外から聞こえる電車の音に背中を押されるように席を立つ。客は私たちの他にもういなかった。会計を済ましごちそうさまですと声をかけてまたお越し下さいねと背中越しに聞こえた瞬間猛烈な悲しさが心を襲った。

店を出ると通りにも人はほとんどおらず、元来た商店街通りを見やっても来た時以上に明かりが消えている。なんだかこの世界に二人取り残されたような気持ちに陥り、いやそれならそれで二人このままさよならなんてせずに済むのか、などとふざけたことを思った。
「随分長いこと話してたね」
「そうだね、でも最後に話せてよかった」
「どうする?最後にセックスでもしてく?」
私が茶化したように言うと「そんなことしたら帰れなくなる」と彼は小さく笑って答えた。終電の時間という意味なのか、恋しくなってしまうという意味なのかは、どうしてか聞けなかった。

帰りは少し遠回りして多摩川台公園の中を通って帰ろうという話になり、暗く足元の見えにくい階段を上り出す。
「大樹がもう多摩川に一生来ないって言うならさ」
私のその声に階段を先に上り切った彼が、問いかけるような目を向ける。
「私もここは永久欠番ってことにしとくよ」
上ったら東屋が幾つか見え、その先が紫陽花のエリアになっている。今はまるで色味がなく、ただ静かに次の季節を待っていた。
永久欠番か。いいね。優菜との思い出は今日全部ここで成仏してくよ」
「そうだね、私も」
彼が黙って私の右手を引き、誰もいない暗闇の中、何度目か分からないほどの、けれど人生で最後の、短い短いキスをした。

暗闇に慣れた目は駅の光にしばらく対応しきれず、けれど余韻を消したくなかった私は改札を通ってあっさりまたね、と手を振った。これ以上目が合ってしまえば二度とこの場所から帰れなくなる気がしていたし、今まで恨んできた電車が逆方面という事実に初めて感謝した。彼は何か言いたげに瞬きをしたけれど、「またね、元気でいろよな」と私が来た時と変わらぬ仕草で左手を上げる。最後は振り返らずにエスカレーターに乗ろう、ホームに上がったらお互いを探さずに電車が来るまで足の先を見ていよう、と二人で決めたのは、ついさっきのことである。私はやけに速く感じるエスカレーターに右足を乗せた。

また、がいつ来るか、果たして本当に来るのかどうかは分からないけれど、この永久欠番の駅はきっとずっと静かにこの場所で私たちを待っている。私はきっとこの先この場所がある限りその事実に救われながら歩き続けることだろう。今まで私たち二人が見てきた四季折々の彩を加えながら。

二人の決断は正しかったのだと胸を張れる日がどうか来ますように。今日というこの日が悲しみではなく美しい思い出として飲み込める日が来ますように。そして彼がこれからもあの声の響きで、あの瞳の綺麗さで、この世界を真っ直ぐ歩いていけますように。いつか多摩川の河川敷を手を繋いでどこまでも行ける気がしたあの日のように。