みなとみらい駅


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「なんだか納得のいってない顔だね」


父は私の顔を覗き込んで少し困ったように微笑んだ。控え目に目元に皺が刻み込まれているものの、57歳という年齢の割りにはハンサムだ。と私は常々思っている。そんな父は、私にとって自慢の父だったし、母よりも父の方が多くのことを相談できたと言っても過言ではなかった。

 

母が夜勤でおらず、自分はノー残業デーだから一緒に夜ご飯でも食べないかと連絡が入ったのは今日の昼。定時である17時15分の5分後きっかりに父はみなとみらい駅直通の ”長いエスカレーターの上” に現れた。分かりやすい目印が他に全くない訳ではなかったが、仕事終わりに父が指定するのはいつも “長いエスカレーターの上” だった。お疲れ様、と父に微笑みかけると、父もわざわざありがとうと目尻を下げた。

 

「美味しいパスタ屋さんを見つけたんだ」

と嬉しそうに教えてくれたこの店は、確かに初めてであり、雰囲気もとてもいい。こんな近くにこんな穴場があったとは。優柔不断な私を気遣い、いつものように自分が決めてからメニューを全て私に渡し、父は穏やかに私を見つめた。いつもと変わらぬ光景だった。父と仲の良い私は時々こうして父と外食をする。よく羨ましがられるが、私の家では普通のことだったので小さな頃はよく首を傾げたものだった。なぜ多くの女の子が父親を嫌がるのかが理解できなかったし、それを母親に聞くといつも必ず

「お母さんの大好きな人を瑞希に嫌いになってほしくなかったもの。お母さんが頑張ったのよ」

と言っていたっけ。最近は尋ねなくなったけれど、今だって同じように答えると思っていた。けれど、違ったのだろうか。
父のたった一言がそんな日常を一瞬で全て消し去った。

 

「納得がいってないっていうか、意味分からないよ。どういうこと?」

「今話したことが全てだよ。瑞希ももう来年には社会人だし、お父さんとお母さん二人で今後の話をした時に、一緒にいる未来よりもそれぞれ別々の未来を進んでいる姿の方がしっくりきたんだ」

「そんな綺麗事いいからさあ、なに?お互い好きじゃなくなったってこと?」

自分の声が思っている以上に苛立っている。父が口を開きかけた瞬間、店員の お待たせしましたあ明太子とゆずとイカのスパゲティでえす というよく通る声が上から降ってきたので、私は黙ってぺこりとお辞儀をした。

「この話は後にしよう。せっかく美味しいパスタが来たんだから楽しく食べよう」

自分で言い出した癖に、父はそう言いながら既に先に来ていた自分のジェノバソースのスパゲティをフォークに巻き始めている。

ふと右を見ると外には広いテラスがあり、目の前に小さな頃に何度か乗せてもらったコスモワールドの観覧車が見えた。私の口は両親の離婚の話を諦め、卒業研究のことをするすると出していく。よくもまあこんな動揺している時に私も呑気なものだ。ゆずの爽やかな香りと明太子のピリッとした刺激が舌の上を滑っていくのを感じ、ああやっぱりパスタは私の味方なのだとぼんやり思う。

 

東急スクエアを真っ直ぐに突っ切り、二人で迷いなくみなとみらい線みなとみらい駅とは逆に歩き出す。これも私の家族内での決まりで、みなとみらいから帰る時にはみなとみらいから横浜までは必ず例外なく歩くのだった。

「お母さんとは、職場内恋愛だったんだ」

ふうん、と言いかけて えっ とつい声が出る。

「知らなかったよそんなの」

「そうだね、瑞希の前でこういう話はしたことなかったかな」

最近綺麗に整備されたマークイズと横浜美術館に挟まれた道は、ロマンチックにライトアップされている。少しオレンジがかったライトに照らされた父の横顔を盗み見ると、ちょっと不思議な気持ちになった。

「お父さんがお母さんを口説いたの?」

「口説いたっていうのかなあ、どんなに教えてもコピー機の使い方がまるで分からないお母さんにお父さんがつきっきりで教えているうちに気づいたら付き合ってたんだよ」

「何それ怪しい~」

「本当だってば」

確かに両親から馴れ初めなんて聞いたことがなかった。私の彼氏の話ですら、なんだか恥ずかしくて話したことがないくらいだ。父は時々すれ違う手を繋いだカップルをちらと瞳に写しながら、母との今までを訥々と話してくれた。母とのデートの待ち合わせ場所にエスカレーターを上がった上を指定していたらしい。なるほどその名残を私が受け継いでいるという訳だ。無論当時はまだみなとみらいという場所はないので、別の駅の話だろう。

 

どんなに好き合っていてもいつか終わりは来る。らしい。結婚なんていう法的縛りなんて、なんら関係なかったのだ。馴れ初めを聞きながら、涙腺が震えているのが分かる。自分の両親だからとかじゃない。勿論それもあるけれど、なんだか虚しくて仕方がなかった。この気持ちをどこに追いやればいいのか見当もつかない。どうしてくれるというのだ。どうしたらいいのだ。大好きなお父さんとお母さんは、一体どうなっていってしまうのだ。誰かに泣いてすがりたい。夢であるなら早く覚めてほしい。

 

相当ゆっくりとしたペースで歩いていたが、気づいたらもう日産本社の丸いビルが見えていた。父のスーツがその淡い光を反射しているのを見ながら あのさあ、とその肩に話しかける。

平日の21時という時間からか、さほど人もおらず、明らかに仕事帰りの人たちがちらほらと足早に歩いている。彼らは家に帰るのだろうか。その家には誰が待つのだろうか。妻?旦那?子供?犬?それとも友達?
「ん、どうした?」
「お父さんとお母さんどちらかにはこれからは全然会えなくなるの?」
なんでもないような声色を作ったつもりだったが、少し震えた。
「いや、お父さんもお母さんもお前が大好きだから勿論これからも会うよ。ちなみに、家を出ていくのはお父さんなんだ。」
お母さんだって、お父さんのことを大好きな人だと私にあんなに何度も言っていたのに。
「うん」
「お父さんは今の会社を辞めて、長野でずっと夢だった喫茶店を開く。瑞希も遊びにおいで。」
長野は、父の故郷だった。その一言で私は全てを悟った。横浜は母の大好きな街だし、母は父に着いて行かないという結論を出したのだろう。そして父も同様に、大好きな街への夢を折ることができなかったのだろう。私がここでどんなに泣いてすがったって、二人の心が変わるとは到底思えなかった。私と父はその後黙ったまま、明るく騒がしい横浜駅に吸い込まれていった。今日の長すぎる夜の散歩の終わりである。

 

あのみなとみらいの長いエスカレーターで父を待つことは、きっともうない。母もきっと、父を長いエスカレーターの上に探すことはもうないだろう。けれど不思議と先程までの絶望的な気持ちは消えていて、なんだか温かい何かが心を包んでいた。コピー機すらまともに使えなかった母が、大好きな父ではなく大好きな街を選んだのだ。もう一人で生きていけるから大丈夫だという父へのメッセージだった。


最寄りの駅から父と歩きながら、さよなら、そして初めまして、と心の中で一人呟いた。