辰巳駅

 

「沼にハマる」という言葉がある。

言葉通りずぶずぶと足を取られて抜け出せないことを指す言葉なのだけれど、この言葉を作った人間はこんなに苦しい思いを味わって作ったのだろうか。この手を伸ばせば伸ばすだけ掴めない骨ばった腕を。走れども走れども横顔すら覗き込めない距離感を。その癖に自分の求める時だけふわっと腰に回ってくる匂いを。

 

暇な土曜日。昨日の飲み会の疲れが来たのか体が怠い。二年上の先輩が結婚を理由に退社するので、それを見送るためのつまらない夜だった。結局社会人という生き物は何かと理由をくっつけて酒を飲みたいんだろう。酒の場では仕事中は話しかけられない若い女の社員に話しかけてもいいみたいな風潮は一体どこから来るのか。

ベッドから出られない私は、随分前に鳴ったスマートフォンをゆっくりと探る。午前11時半。大学生の頃と違ってどんなに怠くても午前中には起きるようになってしまった。歳だろうか。気にしていない風を装ってみるが、何もメッセージの届いていないまっさらなホーム画面に意図せず溜息をつく。比嘉くんは今日も仕事なんだろう。前回会ったのは先週の日曜日。今週はやめておこうか。迷う頭に比嘉くんのネクタイを緩めるシーンがよぎる。ああ考えるのはやめよう、何か食事を作らなければ。重い体に鞭打って、更に鉛のような重さの布団を剥す。

最初に比嘉くんと会ったのは友達に付き合って行った小さなライブハウスだった。まだメジャーデビューしていないバンドにも関わらず結構人が多くて、友達は最前列を狙うからと早々に別々になり、あまり来慣れていない私は始まる前に後ろの方でちびちびとジンジャエールを飲んでいた。

「あの、これ、落としてません?」

私のハンカチを持って前髪の重たそうな黒いTシャツを着た男の人が臆せずこちらを真っ直ぐに見ていた。背がかなり大きく肩回りもがっちりしている。180センチはあるだろうか。ハッと肩にかけていたカバンを見下ろすと、確かに開いていた。

「ごめんなさい、私のです。ありがとうございます」

慌てて手を伸ばすと男の人は「謝らなくていいのに」と言いながら小さく笑った。決して綺麗ではないライブハウスが、急に一瞬明るくなったような気がした。思えばもうあの時から既に遅かったのだろう。時計の針は確実に動き始めていた。

 

気晴らしに買い物でもしようといそいそと準備をして出てきたはいいものの、天気がどうも芳しくない。どこか屋内で済ませられるショッピングモールに行くのが最善だろう。グレーのノースリーブのブラウスに少しラフなジーンズ、赤いパンプス。「これぞ勝負服」と思われない程度の女の子らしさを入れておけば今日がどんな結末に落ち着いても悲しくない。さっきスマートフォンに打ち込んだ「今日も会いに行ってもいい?」の文字を頭の中で反芻し、分解しながら、同時に頭の中で時間を計算する。うん、ちょうどいい。

来た電車に乗り込むと土曜日らしく比較的混んでいて、そこここにカップルらしき二人組が笑っている。羨ましくないかと言われれば羨ましい。でも休みが合わないから仕方がないのだ、気楽な関係の方が後腐れなくていいんだと必死に自分を説得する。隣の二人組はどうやら付き合って長いようで、嫌みのないさりげない会話をしている。ショートヘアの女の子はパンツルックだし、男の方もキャップを被ってやけにカジュアルだ。

「動物園なんて久しぶりだな。私奥の爬虫類館見たいかも」

「相変わらず好きだよね、動物園行って爬虫類楽しみにすんなよ」

「いいじゃん別に。動物園の後どうする?なんか買い物とかある?」

「うーんそうだな特に今は思いつかないけど。後で近くにある店とか調べてみよっか」

きっとお互いに動物園の後はセックスをするだろうと知っていて聞いているのだと私には分かる。それでもカップルとして、「セックス」というイベント以外にも魅力的なイベントがあるのならそちらを選ぶ猶予を残している。これが例え言葉上だけの関係にしろ、「彼氏彼女」と「それ以外」の違いなんだろう。私たちに、少なくとも私には「それ以外のイベント」を選ぶ権利などない。それでもいい、それでもいいからと始めた関係のはずだった。いつか行為以外のものを選べる日が来るかもしれないからとヒールのないパンプスを選んでいても、結局いつも左程歩く必要もないまま今を迎える。

 

比嘉くんは不動産屋で働いていた。その業界のことは私には分からないが、平日が休日のようだった。「ようだった」という言い方をしているのは、明確に何曜日が休みなのか問うたことがないからだ。決まった曜日が休みだと知ってしまうと期待してしまう気がした。そして何より、休みの日なのに連絡が全くない事実に気が付いてしまう気がした。所謂名前のつかない関係性の私には比嘉くんの休日の予定を指定する権利なんてないはずだし、あまり深入りして嫌がられるのが怖かった。

 

大型ショッピングモールは案の定天気を案じてやってきた人間で溢れていて、それぞれの店舗の店員さんたちは外に呼び込みをする暇もなくあくせく働いている。ショッピングモールらしい内観はぐるぐると入り組んでいて、私のように予定もないただの徘徊者にも優しい。外に出るとすぐに海辺のあるここはデートスポットとしても有名で、大きな映画館の前には多くのカップルがいる。その中にいた男の子がそれとなく比嘉くんの重めの前髪を彷彿とさせ、また思い出してしまう。駄目だ。彼は仕事中。きっとまだ既読もついていない。

彼の昼休みはいつも遅かった。今日もきっと一時半過ぎだろう。朝ごはんも遅かったし既読が気になってなんだか食欲がなかったが、昼食らしいものを食べなければとすぐ目に入った「100本のスプーン」という店にふらっと入る。人気店だが一人だと案外入れる。返信がくるまではこの店を出まい、と唇を噛む。

 

勿論彼女にしてくれないのか、と軽い口調で聞いたことはあった。

あれは出会ってすぐの三度目くらいのデートの時だったか。その頃から今まで毎回比嘉くんの職場の近くで落ち合って小綺麗な居酒屋に入り、秋葉原近くの比嘉くんの家になだれ込むのが定番のコースで、その時は確かこのショッピングモールの中に入った居酒屋で飲んでいた。

「比嘉くん彼女作る気ないの?」

改まって告白をされた記憶はなかったので、鈍感なフリをして誘導してあげたつもりだった。だって体の関係は悪くなかったし、比嘉くんの方から次の予定を聞いてきていたし、はっきり言って恋人まで秒読みだと思っていたから。白い袖がパフスリーブになった気合の入ったブラウスを着ていた。仕事終わりの彼にお似合いの、仕事のできそうなOLに見えるように。

「うーん、今はいらないかなと思ってるんだよね」

少しくぐもった声で答える。飲みかけのスパークリングワインの炭酸が一気に抜けていったような気がした。

「…そうなんだ。彼女はいつからいないの?」

「一年くらい前かな。でも誤解しないで。葵生を都合よく扱ってる訳じゃなくて、今のタイミングが悪いだけで、もう少ししたらちゃんとしたいとは思ってるんだ」

「えー、じゃあ私別にわがまま言わないし、いい子にしてるからちょっと早めに彼女にしてくれたっていいじゃん」

と私が言葉を言い終わるか終わらないかの瞬間、比嘉くんの瞳がすっと熱を失くすのが見えた。これ以上は踏み込んでくるなっていう目だ。咄嗟にそう判断した私は、「とか言ってね。私も今は一人が気楽だなあ」と笑って誤魔化した。あの後どんな顔をして酒を煽いだんだったか。よく覚えていないけれど、あの日はやけに淡泊なセックスをしたことだけはよく覚えている。

 

あんな誠実な比嘉くんに限って私をセフレとしてしか見ていないなんて考えられなかったし、そこそこのビジュアルを持った私に限って普通の不動産屋に勤めるサラリーマンに弄ばれるなんてことは考えられない。確かに私達が繋がっているのはLINEだけだし、それ以外のSNSは知らない。でもだからなんだっていうのだ。あの時比嘉くんは確かにもう少ししたらちゃんとすると言った。それを信じずに何を信じるというんだ。

頼んだオムライスを頬張りながらスマホをじっと見つめる。14:20。バカバカしいと思う自分とそれでも比嘉くんが好きだと叫ぶ自分の綱引きは、結局いつも後者が勝つ。今回もここまでのこのこと出てきてしまっている以上、もう後には引けない。

 

「いいよ!」

と返信が来たのはもう15時を回った頃だった。飲み物を三杯も頼み直し、家族連れに埋もれた私は小さく悲鳴を上げた。彼の昼休みが終わってしまう前にもう一通でもやり取りをしたくて、慌てて

「私今他の用事で豊洲にいるから、何時でも平気だよ!」

と送る。こんなに突然会いたいと言って会えるのだから他に女なんている訳ない。私が一番恋人に近い人間だ。急に着ている服が軽くなったような気がして、映画でも見ようかと立ち上がる。隣に座っていた子供がぎょっとしたように私を見上げた。時間はまだ十分にある。

 

17:50。外はもう夕焼け模様になってきていた。夏が近いからか、ノースリーブでこの時間に外を歩いてもさほど寒くない。六月頭だというのにいい天気だった。比嘉くんは18:30が定時だから、ここから比嘉くんの会社の最寄りの辰巳駅まで歩いて向かえばちょうどいいだろうか。電車でも一駅だがまだ早すぎる。直接会社の前で待ちたいところだけど、そこまですれば私が比嘉くんと会うためだけにここまで来たことが分かってしまう。あくまでもついでに電車で寄れたテイでいることが重要だ。そこまで頭の中で考えてから、なんて計算高い女になってしまったんだと苦笑した。

 

辰巳駅の周辺は、豊洲駅と違って静かで地味だった。そこが割と好きだったし、落ち着いた。団地があったり公園があったり工場があったり。どこも静かにキラキラ輝くでもなく自分の使命を全うしている。勿論比嘉くんと出会うまでは一度も行ったことのなかった駅だ。ちょうど歩いて30分くらい。途中に川を渡ったり、結構楽しい。

 

だんだんと空も暗くなり、周りも豊洲の明るい街並みから少しずつ静かになってきた辺りで、スマホが短く震えた。そういえば結局昼休み、あの後は返信はおろか、既読もつかなかった。慌ててポケットから熱を帯びた機械をつまみ出し、ボタンを押す。

「ごめん、今日無理になっちゃった」

膝から崩れ落ちそうになるのを必死にこらえながら、思考を巡らせる。それでも私は明日休みだし、家に泊まることもできる。遅くなるだけならいくらでも待てる。

「残業やばそうなの?私全然待てるから大丈夫だよ~」

軽くため息をついてさっきより重くなったスマートフォンをポケットに滑り込ませる。遠くの方に辰巳駅の端くれが見えてくる。左手にある団地の窓から、生姜焼きのような良い匂いがする。左側には江東区辰巳児童館。どちらも味気のない白い建物だけれど、やっぱりなんだか落ち着く。人々の生活感が見えるからだろうか。

駅前には広めのロータリーと、その奥には公園があるが、どちらも全然人がいない。観光地でもない上に子供が帰り始めているこの時間は、ちょうど狭間の時間帯なのかもしれない。

 

公園のベンチに腰をおろしてスマートフォンの画面をつけると、メッセージが来ている。

「残業とかじゃなくて他に予定が入っちゃった」

「リスケさせて!ごめん!」

二つに分けたメッセージから、慌てて書いた指の音が聞こえる。

 

まあそんな日もあるよね、帰ろう、と思う心とうらはらに、なぜか足がすっくと立上り、駅とは反対の方に向く。行ってはいけない。知ってはいけない。私は適度な距離感を保ってここまで上手く比嘉くんとやってきたはず。例え他に女がいたとしても、私のこの大人な距離感のおかげでここまで一番手でやってきたはず。このままいけば絶対に彼女にしてもらえる。そう言い聞かせても足が止まらない。

バグを起こしている自分の頭の中に、「葵生は大切にしたいんだ」と月明りのベッドの中ではにかんだ柔らかそうな頬や、ふわふわと寝息と共に浮く睫毛、私のことをガラスのように優しく触る長い指、お腹が空くと決まって好きなお笑い芸人の真似をして買いに行こうと誘ってくるお茶目な顔が浮かぶ。もうあの沼にハマって丸二年くらいになるのか。長かったようで短かった。二年も一番近い場所で笑っていたはずなのにどうして彼女にはしてくれないの。比嘉くんは私を独り占めしなくても平気でいられるの。どうして私ばかりが休みの日にこうして連絡を待っているの。どうして他のSNSは頑なに教えようとしないの。どうして。どうして。

 

ハッと気が付くと、もう比嘉くんの職場の前に着いていた。ちょうど男女の組が不動産屋から出て細い路地に入ったところで手を繋ぎ、顔を寄せ合ってスマートフォンを覗いているのが見える。歩くスピードはそのままに、私はその二人めがけて進む。自分がもうどんな感情なのか、どうしたくて動いているのかも分からなかった。ただ、自分が深く傷ついた音がして、それが許せなかった。

ふと男の方が顔を上げ、近づいてくる私に気づいてぎょっとした顔をする。

「葵生、ちゃん?」

隣の女に考慮してか、呼んだこともないちゃん付けで呼んでくる。重い前髪がこんな状況にも関わらず穏やかに風に揺られている。

「どなた?学生時代のお友達?」

にっこりと微笑んだ隣の女は、ぱりっとした女性もののノーカラーのスーツを着ていて、明らかに仕事の同僚といった感じだった。私がどんな形相をしているのか分からないけれど、只事じゃない空気にも関わらずここまで堂々としているのは、きっと正真正銘の彼女なのだろう。

どうも、と会釈をしてから、彼女を顎で示して

「彼女?」

とだけ聞いた。自分の声がひどく落ち着いていることに少なからず驚く。

「…そう」

私がどう出るのかが分からないのだろう、比嘉くんは次の言葉に迷っているようだった。

豊洲で用事って言ってたっけ?彼氏?」

何を白々しく彼氏?などと聞いてくるのだろう。なんだか目の前の男が私の知らない人間のような気がしてきて、不思議な感覚に陥る。

「そうだよ。だから比嘉くんも含めて何人かセフレがいたけど、今みんな縁切って回ってるの。今日はお別れがしたくて来た」

隣の彼女がちらっと比嘉くんの顔をみて、繋いでいた手を離す。比嘉くんも、私のせいで全部失えばいい。失うことの重みを分かればいい。

「今までありがとう。セックス、私のおかげで随分上手くなったから彼女に還元してあげてね」

最後のさよなら、は自分にしてはカッコよく言えたと思う。比嘉くんがどんな顔をしていたのかは見えなかった。相変わらず重い前髪が大事な心情を隠してくれたのだろう。そうやって一生誰とも分かり合えずにいればいいんだ。私は先に進む。

 

帰り道、涙は出なかった。心のどこかでこれでよかったんだと安心する私がいる。まだまともな判断のつく私が残っていてくれてよかった。人を好きになることに理由なんてなくて、きっかけなんてなくて、でも好きになる前に知らなければいけないことは多分とても多い。私は傷つくことが怖くて無意識にそれを避けていたのだろう。この世には今この時にも綱渡りのような恋愛をする人間は一定数いる。多分比嘉くんの隣にいた彼女も、同じことを繰り返される恐怖と戦った後、それでも自分だけは特別なのではないかという淡い期待を抱いて関係を切れないだろう。彼女だって被害者だ。

あの時小さなライブハウスで私と比嘉くんの間に吹いた風は本物だったと信じたかった。ただそれだけのことだったのに、比嘉くんには風なんて始めから吹いていなかったのだ。私一人が比嘉くんから放たれる光に、風に、さえずりに踊らされて、何も見えなくなっていたんだろう。

 

戻ってきた辰巳駅はもうオレンジ色ではなくなっていて、暗くぼんやりとそこに立って私を待っていた。もう二度とこの駅に用はない。振り返ると、さっき生姜焼きの匂いが漂っていた辺りからはお風呂の匂いがしてきていた。この世界は私が男に弄ばれようが、見切りをつけようが、それでも移り変わっている。ここにとどまっている訳にはいかない。

さあ戦いはこれからだ。