弘明寺駅

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いつかがいつか来なくなることくらい、俺にだって分かっていた。

俺だって何度も女に口にしたいつかを名も知らぬ駅の道端に捨ててきた。それでも今回のいつかは実現しない訳なんてないと思っていた。油断していたのかもしれない。

 

ばあちゃんの危篤が伝えられたのは昨日だった。東京に出て遊び歩いてぬるま湯に浸かりきっていた俺にとっては寝耳に水の話だった。ばあちゃんがガンだなんて両親からなんの連絡も来ていなかったし、それも半年前から戦っていただなんて。ちょうど俺が最後にばあちゃんと会ったのはガンが発覚する一週間ほど前だったらしい。
「敦、最後くらい顔を見せてあげなさい」
耳元で冷たく響いた母親の声はもう諦めの色が滲んでいた。それは俺が行くはずがないという諦めというよりは、恐らくばあちゃんの可能性という意味で。最後なんて大袈裟な。そんなことより母親の声はこんな声だったか。そういえば母親にも随分長く会っていない気がする。父親は元気なのか。まだ飲み歩いているのか。いやそんなこと俺が聞けた話じゃないか。頭の中をぐるぐると旋回した色んな?は、「分かった明日行く」という乾いた自分の一言に吸い込まれていった。

 

結局その「明日」は、永遠に来なかった。ばあちゃんは夜中に、つまるところの「今日」と「明日」の狭間に息を引き取ったのだ。

 

ばあちゃんは俺が小さい頃から、共働きだった両親の代わりに愛情を惜しみなく注いでくれたたった一人の人間だった。京急弘明寺駅から歩いて15分。学校終わりにランドセルを背負ったまま10分くらい電車に揺られてよくばあちゃんちに通ったものだった。思えばあの頃見えていた景色は今より遥かに色鮮やかだったし、その色を探して都心に出てきたはずなのに見つかるどころか失ってしかいないのはなぜなのか。

 

京急弘明寺駅を出ると、右に行けば商店街、左に行けばばあちゃんち。平日昼間にも関わらずやはり人通りがそこそこにあることも、あの頃から何も変わっていない。なんとなく右方向に足を滑らせ、商店街の方へ坂を下る。
「あっくんは何が食べたいかな?唐揚げかな?ラーメンかな?」
どんなに大きくなってからもばあちゃんがこの坂を下る時に俺に話しかける口調は子供向けだった。照れ臭いながらも昔からの慣れでやはり心地よく、よく「今日はラーメンかな」と素直に答えていたものだった。突き当りにはパチンコ屋。道なり左に曲がると商店街。目を瞑っていたって分かる。

 

「敦くんって誰のことも好きになる気なんてないでしょう?」
と俺に穏やかに問いかけたのはどの女だったか。本気の恋愛などとうに捨てていたし、夢を追っているバンドマンという名目のちょっと顔のいい男を選ぶ女なんて、好きになれる訳がなかった。その時にいい気分になって、気持ちよくなって、都合が合わなくなれば顔を見なくなる。ただそれだけだった。どうせ向こうにも金のない男になんて長く抱かれる気はなかっただろう。


東京という街は大きくて冷たくて眩しくていつも睡眠不足で、あんなに憧れていたはずだったのにいつしか呪縛のように出られなくなっていた。今弘明寺を歩く自分の足を見て、俺の足がこんなにゆっくり動かせることに気がつく。東京で一心不乱に歩いていたついさっきまでの自分の足を思って、帰れない帰れないと泣いていたのは他でもなくこの足だったのかもしれないとふと思った。

 

ばあちゃんは炒飯が好きだった。俺がラーメンがいいと主張した時でも、商店街入ってすぐ右側の中華料理屋を見ると「やっぱり中華にでもしようか」と捻じ曲げられることも多々あった。11:30。混んでいるだろうか。こんな時に入るべきではないだろうか。立ち止まる俺を通行人が怪訝そうに見ている。いいや。俺の足の行きたいようにさせてやろう。

 

俺はいつもラーメン、ばあちゃんは決まって炒飯。ただ炒飯の種類が豊富だったこの店で、唯一キムチ炒飯だけをばあちゃんは食べたことがなかった。
「いつか食べてみたいの」
と言いながら、だからまたここに来る時はあっくん付き合ってねといつも嬉しそうに笑っていた。なぜキムチ炒飯だけ食べなかったのか、当時は考えもしなかったので尋ねたことはないが、一体どんな理由があったのだろうか。


「キムチ炒飯ください」
ばあちゃんと来ていた頃から変わらない茶髪のおばさんと恰幅のいい日本人ではなさそうな男に声をかける。愛想がいい訳ではないが、俺もばあちゃんも気にならなかったし、かえって居心地よく感じたものだ。

改めて落ち着いて周りを見渡すと他の客は平日ながら結構多くて、これだけ人気だから潰れなかったのだなと感心する。かなり綺麗というまではないが、シンプルでさっぱりとした内観で無駄がない。ここは確か店内で食べるだけでなく外にテーブルを出してテイクアウト用の中華料理も売っていたはずだ。今晩はここで買っていこうか。

 

「はいキムチ炒飯です〜」
頭の上から突然降り掛かった声に慌てて「はい」と前に向き直ると、おばさんがじっとこちらを見ていた。
「あなたここによくおばあさんと来ていた方よね?」
顔を覚えられていたのか。まああれだけ来ていたら当然だろう。
「はい。」
少し身をこわばらせて答える。
「今日はご一緒じゃないのね。おばあさん、お一人でも何度か来てお一人の時は必ずキムチ炒飯を召し上がって行ってるのよ。」
「キムチ炒飯を…?」
目の前に置かれたキムチ炒飯は少し湯気が上がっていて、どこからどう見ても美味そうだ。
「あなたの前では食べなかったでしょ?あなたとここに一緒に来る言い訳にしているのって前に一度だけそんなことをぽっつり仰っていた。」
おばさんはにっこり微笑んで、おばあさんの秘密をバラしちゃったわね、知らないフリをしてねと厨房に戻って行った。

 

俺の涙腺は壊れたはずだった。もうしばらく泣いていなかったし、感情などとうに消え失せたと思っていた。それでも、大好きなばあちゃんが最後まで明かさなかった秘密を聞いて我慢ができなかった。そんな言い訳なんてなくたって俺はばあちゃんといくらでも中華料理を食べに行ったよ。いつかキムチ炒飯を食べるって約束したんだからちゃんと果たしてから逝ってくれよ。こんなにばあちゃんに会いに来れていなかった不孝者の俺を恨んだ。恨んでも恨みきれないほど、恨んだ。

 

厨房に背を向けて座っているのをいいことに、ぼとぼとと涙を落としながら拭いもせずに温かい炒飯を頬張る。ピリリと口の中で刺激を振りまくキムチを、マイルドで優しい味の炒飯が包んでいる。ばあちゃんが住んでいたこの街はもうよそ者になってしまった俺にもこんなにも優しくて、こんな罪人に一欠片も刃を突き刺すこともない。


今この時にも東京の街は騒々しく人が行き交い、誰一人、たった今すれ違った相手の顔すら思い出せない。東京の家に、契約更新の時期が迫っている。

 

ポケットでさっきからプルプルと何かのアラームのように震えるスマートフォンに指を滑らせ、耳に当てる。
「もしもし母さん?俺、帰るよ。」